生きる意味3

  人間は生物として、他の動植物よりも高い価値を持つというのは、人間固有の価値判断に過ぎない。この点では生きる意味は動植物と人間は同価値である。
  生きる意味を問うということは、このような意味を訊ねている訳でない。むしろ、生命現象から離れた、人の活動の意味を問うている。集団内での個人、世界における自分自身の位置づけ、これが生きる意味を問うことの意味である。
  私の世界、解釈の中で、私自身の位置づけ、価値が生きる意味である。自分の位置が特定できない。また位置に価値を自身で見出せないと生きる意味を喪失してしまう。
  私は、自分の世界(私が解釈しているこの世界、風景)の中で、自分を重要な存在と確かめたい。そのために、金銭、名声、地位を得ようと活動している。
  自分の世界の中で、自分を重要と認めたいがために、私と他人との比較、関係によってそれを確かめる。この行為の中に、生きる意味を見出そうともがいている。 私が世界の中で、私をどのように位置づけようと全て自由であるはずなのだが、実際には、私は社会的な価値、位置づけをすることに満足をする。(価値ということ自体が社会性が必要であり、社会性のない価値は価値が喪失していまう。)
  生きる意味を見つけようとすることは、自身の生の全体に対する解釈というよりも、この点では自身の社会での位置付け、場所取りをしようとすること、この実践、活動が生きる意味としての意味内容である。
  私の消滅によっても、私が生きてきた意味というものが残るという、この幻想、評価、私の物語を求めるが故に私の位置を求めるのだろう。
  私の信じる結果もいつかは波紋が消えるように消えいくこと、忘れ去られることは必然であるが、それでも私が解釈を欲してしまう。私が私を評価する活動、これが私の生きる意味を問う構造である。そしてその評価が私の生きる意味である。