私の二つの意味 8

 私を意味と規定しようとする私がいる。私には私を規定しようとする私と、規定される側の私の2種類がいるように思う。今のところは、数えればまだいるかもしれないが。
 私を規定しようとしてる私は、私を構成してる枠であって、思考の方法であり、その思考の方法の裏づけとなる感情、倫理観、ルールだ。
 私の枠は、私の中の小さな社会、関係だ。底にあるのが、感情であり次に倫理観、ルールが積み重ねてあるように思う。倫理観や私が従っているルールは、ある感情から適用される倫理観、ルールが生まれ、逆にこのルールに反するようなことがあれば、ある感情が生まれるのかもしれない。
 一方の私、規定される側の私は、私の意味だ。規定する私が、私はこうでありたい。又は私の全てはこれだ。といえるもの。私からこれをとれば私ではない。というような表現をされている私が、規定される側の私だ。
 世の中には、私は社長だ。私には会社の成長、売り上げが全てだ。というような本当に純粋な人物がいるのかもしれない。音楽が私の全てだというような人物がいるのかもしれない。金と地位から得られる享楽が私の全てという人物は多いだろう。特に権威を恐れ、権威に自分がなりたいと思う気持ちはだれにもあると思う。
 私が何を大切にしているかを枠の私が決めれば、中身の私が決まってくる。
 中身の私を決めることができれば、私はたやすく規定できるし、私が何かを考えない人であれば、私はこれでしかない。私が大切にしているもの、私が何をこれから大切にしようとしているのか。これが定まらないと私が漂流してしまうのだろう。
 私がやりたいことを明確に持つ人物は、純粋な人物と評されても明確に幸せだと思う。これにまい進すれば、着実に幸せに近づくことを感じることができるのではないか。意地悪に言うと、「本当に幸せであるか」はその人が決めればよいのであれば、これでその人にとっての私が決まる。
 私は、枠としての私と、その中身である私の二つで一つの私となっている。普段は、意識をしていないが、二つの私をまとめて私と言っている。実際には枠の私は、私の経験、歴史を通して形成されるので、これまで私が何を中身としてきたかで、私の枠も変わってくるだろうが。
 ただ、枠としての私を強く意識する人は、私の中身が空疎に見え、中身としての私を強く意識する人は私を省みることができない。
 枠も中身もどちらか一方では、私のバランスが崩れてしまう。どんなに枠である私を覗きこんでも、枠は私の中身でないから、私の大切なものが見当たらない。また、私の中身も、もともとは私の外部のものを私としているのであるから、よく見てよく考えれば、これは私ではないと思ってしまう。
 枠の私を意識せずに、私の中身ばかり見ていれば、その中身が喪失した時に、私が無くなってしまう。その中身が本当に価値あるものか吟味する機会が少なければ、ある日に私の中身がつまらないものと思ってしまう。
 私の枠は、この自分自身の枠が正しいかどうかは完全には判別することができない。自分の目は自分では見えない。
 不完全ながらも、この判別をするために、私と他者との関係性を見つめなおすことが必要だ。これが反省という作業だろう。
 私は延々とこのサイクルを繰り返すことで、私を作りつづけているのだろう。
 私は、毎日が違う私へと変化している。進歩でも退化でもなく、少しづつ変化している。