生まれたことの意味

「生まれたことの意味」
私の子、高校生の宿題のテーマである。詩を読んでの感想文ということだが、先週に私が生きる意味を考えた後であったので、少し驚いた。再度考えてみようと思う。

  私が生まれたことは、物語の始まり。私は自分の物語を「語る」ために生まれた。と仮定しよう。 
  私の物語を語る時、それは私が世界で体験したことから切り出した創作、私なりの解釈である。
  私の物語の全体は、膨大な事実と心象の積み重ねである。物語として語り、削り出される可能性としてはそこにあるのだが、全体としては語られることのない物語でもある。イメージ的には巨石から石像が生み出されるように、私がそこから削り出し、語ることによって、初めて形をともなった物語となる。
  この可能性としての物語の全体は、私の消滅とともに消滅をする。
  人の死は、可能性としての物語の消滅である。偉人で凡人であれ、物語として削り出されるのは、ほんの一部であり、それは創出である。どのような形であれ、物語が作品として残るのは可能性としての全体の一部にすぎない。可能性としての物語は、その人の消滅とともに消滅し、その人が秩序づけた膨大な意味、情報が消滅する。そうして無意味に帰する。
  私がこのように文を作ることは、一つの語りであるが、日々の生活の会話であっても、私の物語の削り出しである。会話は、記録されないものがほとんどであるが、一部が記憶され、記録されれば削り出された物語となる。この文がそうであるように。
  私の可能性としての物語、私が削り出す物語がいつまで続くは分からないが、私がいる限りに物語は存在する。
  人が生まれたことだけでは、意味は生まれてはいない。人は語ることによって初めて意味を保持する。人は死ぬことによって無意味に帰するが、もとよりそのような存在である。生物は、無秩序の中での連関を生み出し、そして無秩序に帰る。人もそのような在り方でしかないように思う。
  そして、このことを否定的に取る必要はないと思う。私は無秩序に帰ること、この事実に整然としてありたい。無秩序の中で秩序を作り続けることを楽しみとし、その秩序を時折に眺めたい。

  生まれたことの意味は、無意味の中で意味を見つけ、そして無意味へと帰していくことである。
  私なりの生まれたことの意味であるが、高校生は何を見つけだすのであろう。