倫理

 人を手段ではなく、目的として扱う。言い回しは違うような気もするが、この言葉はカントの言葉だ。小学生や中学生の子供にとって、学校生活でも何が正しく、何が悪いことか悩ましいようだ。その時に、カントのこの考えを話した。
 子は子なりに、この言葉が気になるらしい。誰もが人を手段としているんじゃないか。と指摘された。
 実際的感覚からして、人を手段として使用することは理解できるが、目的として扱うことの意味は分からない。友達と言えども何かの目的のために一緒にいるのであって、その人自身が目的という理解が難しい。
 人を目的として扱うということは、実生活とかけはなれているのだろう。テレビでも、人を卑下し満足を得る構図の笑いが充実している。
 誰もが、仕事の際に、人を目的として扱うこと考えながら仕事をしたりしない。仕事の上で人を手段として使用することは、システム上、誰もが行い、それが仕事上の自分の役割、責任である。
 誰もが自分を自分の目的とすることができる。私は誰かに利用される存在ではない。理想的、倫理的にはそうなのだが、これが世の中の真実か、と訊かれると違うと答えざるをえない。経済的には、人は生産の手段とみなされ、商品のコストでしかない。人を目的として扱うことを企業の前提としていると言う企業は珍しいだろう。労働分野での規制緩和以後、労働者の権利の相対的な低下をみれば、労働者=生産の手段の視点がより強いと感じざるを得ない。
 一時期に流行した勝ち組という表現はまさに、人を手段としてしか考えていない。この言葉が流行し、自分が勝ち組であることを、ことさらに誇る。この社会で、人を目的として扱うというようなことを言っても、子供が理解しにくいのは当然だと思う。
 
 倫理的な実践というのは、いつであろうが難しい。子に実践しろというような代物ではない。