努力と結果

 今日、努力は結果に表れるか、否かについて子と話をした。何故こんな話をしているかと言えば、上の子が高校受験をしている。
 
 下の子の意見
 努力は結果に表れるのは正解だ。結果が失敗であったとすれば、それに見合った努力をその人がしたに過ぎないからだ。結果が成功した場合も同様である。(下の子は受験は関係ない。)
 
 私の意見
 この言明自体は気休めに過ぎず、大した意味がない。結果からみれば、どのような努力も結果に対応しているに過ぎない。どのような努力も必ず結果をもたらすことを、言い方を代えたに過ぎない。ものごとの因果関係を結果、原因の方向のどちらから見るかの問題に過ぎない。この場合は、原因の側から見ているだけだ。
 実際のものごとでは、結果は様々な偶然の要素により決定されることが多い。例えば学力試験は仮に努力で何とかしても、面接官の心象の全てをコントロールすることは誰にもできない。優秀な営業マンが全ての注文を取れるわけではないと同様。
 人事を尽くして天命を待つ。あたりの方が、この偶然性を言いえているだろう。
 
 上の子の意見
 人によって頭の賢さが違う、私は朝早く起きて勉強し、勉強も集中してやっている。頭が良い人は全然勉強しなくても、同じ学校に入れてしまう。不公平じゃない。(こんなに勉強している私が落ちたら不公平じゃない。)
 
 上の子の意見に対する私の意見
 意見に賛成したいところはあるが、他人との努力の比較には意味がない。他人の努力を定数化することはできない。他人の1時間の努力と、あなたの1時間の努力が同じ努力であるかは分からない。
 比較が可能なのは、自分の中での努力の量だけであり、他者との比較ではないということだ。
 (努力においては、他者との比較が意味がないと言っても、それは個人のレベルでの話だ。社会レベルにおいては、同じ労働をしていれば給与が異なることは是認できないだろう。労働は努力でなく結果とも言えるが、個人レベルでは努力という言葉に置き換えられる性質がある。この意味では同じ努力に対し同じ報酬が与えられるべきだ。格差社会はこの点で反道徳的であり、上の子の意見で賛成したい点はこのことだ。)
 
 理屈はこうだが、上の子はよく、勉強をしている。十分に努力していると思う。
 私は、結果が努力についてくることを祈っている。 
 
 今、言葉の本当の意味がわかったような気がする。努力は結果に表れるということは、気休めというよりも、期待、望みを意味した言葉なのだろう。
 
 
  後日談
 努力に結果がついてきました。
 努力の結果です。
 (発言の時点によっても意味が変わるようです。
 良い結果の時は、結果論で十分満足。)
 
 追記
いただいたコメントに、努力は経験値として加算する。そして経験値が一定値に達した場合に成功する。与えられた初期値に、加算された経験地が一定値に達しない場合は失敗する。有効な経験値の獲得方法、(勉強方法等)が得られない場合は、時間の制限から一定値に達しない。というご意見だったと思います。
このご意見当たっていると思います。
コメントは返事をして消してしまったのですが、面白い意見でしたので、記憶を元にここに残します。
毒猫ジャックさんのご意見だったと記憶しています。