進歩主義

   自己実現という言葉があるが、この自己実現という言葉には、今の私でない私を「自己」としそれを未来に実現する。また今の私でない「自己」を見つけてそれを目標にすることが含意されている。この言葉も、進歩や成長が前提だ。
 本当に、目指すべき「自己」などというものがあるのか。こう言うと、それは人それぞれが見つけるものだと言われるかもしれないが、ここでの意味は、誰しもに見つけるべき「自己」というものがあるのだろうか。ということだ。
 「自己」というものは、その人の価値観を形成する社会規範や社会的背景と、その人が自身を投影する対象、この二つが「自己」の姿だと私はこれまでに結論づけている。
 自己を実現するには、自身の価値観と自身を投影する対象に進歩や成長がなければいけないこととなる。自身の価値観を形成する社会規範や社会的背景の変更は、簡単に変更できるものではない。自己実現や、自己の進歩ということを考える時に対象としているのは、自身を投影する対象の獲得や拡大を意味している。
 自身を投影する対象が獲得され拡大されれば、自己が進歩したことになる。
 私が鏡を見た時に、前の姿よりも、今の私の姿はより美しく見えるということだ。このことに、どうしても疑問を感じてしまう。進歩したと思っても、この構造では自己満足にすぎない。
 自己の進歩といっても、何か目指すべき目標を持って進歩しているわけでもない。このことは、私だけに限らないと思う。絶対的な価値観や目標は既に社会から喪失している。むしろ価値の多様化と尊重が今大切にされている価値観であり、道徳倫理は社会に存在するが、これも相対的であり、かつ人の目標を提示するものではない。
 一方、身の回りでは、進歩と向上を目指す生活、日々成長し続ける私。今より未来の私。努力と勝利のテーマが、漫画、小説、ドラマ、音楽の様々に繰り返されている。
 自己責任という単語も、努力と成功の因果関係を強力に主張し、失敗の原因を積極的に個人に還元をしている。
 この感覚は、幼稚園から大学までの教育システム、学生から社会人、これまでの社会生活のステップの中で自然と刷り込まれていて、今から吐き出すことが難しい。
 それでいて、私自身も私の子に対して、この刷り込みを止めるわけにも行かない。そんなことをすれば、私の子は社会に適応できなくってしまうだろう。
 この刷り込みは、社会の構成員として必要であり、個人がいつの時点かで気づく必要があるということか。誰しもやる気が失せるということがこの時点だろうか。
 成人の全てが進歩や成長に駆り立てられ、止まることが許されない社会環境は、暴力的な文化と思える。右肩上がりの成長が、社会にとっても、個人にとっても幻想であることはもう自明とも思える。
 進歩しないこと、成長しないことが、逆説的だが価値観としての進歩でもある。
 この考え方が、すっぱいブドウの危険性はあるが、進歩と成長の意味の枠組みは、もう一度考え直したい。