「進歩」

  私には、どうしても前よりも今の方が進歩すべきだという考えが頭から離れない。進歩してどうなるのか。私が進歩したことが、私が本当に分かるのか。そのことにも確信が持てないにもかかわらず、進歩を目指さないことが何か罪のように感じてしまう。
 進化という言葉は、特に善悪の価値基準に当てはまらないことばであるが、進歩となると進歩しないことが悪のような風潮、価値観が充満しているように思う。最近の進化という言葉の使いかたも、ほぼ進歩と同じ使い方になっている。(ポケモンの進化は変態であって、進化論での進化はない。進化という言葉も社会的に進歩、善悪の対照になりつつあるように思う。進化するイチローという表現は、以前よりも今が善いことを意味している)
 進歩が効率化を意味するなら、効率化を目指した先に何が待っているのだろうか。特に労働環境においては効率化を果たした先には、雇用の解除や、正規社員から非正規社員への転換が待っているだけ、経営者としては極めて効率化された時には、労働者が不要となる分だけ利益率は向上するのだろうと思うが、労働者にとってどれほどの意味があるのだろう。
 効率化に貢献した労働者には、経営者から相応の報酬・ニンジンが与えたられこれを無邪気に自身の手柄、自身の評価と喜んでいるのだが、本当に相応の報酬を与えられたのか、組織での地位の向上が本当に約束されたのかは疑問だ。この報酬を何度も与えられた後にやっと手にすることができるのが経営者の地位なのだろうか。この過程では、多くのものが労働者から経営者へ利益が転換していると思う。
 誰もが、進歩に追われ休むことができずにいる。人としての進歩の意味を考えているだろうか。そもそも人としての進歩とは何だろうか。
 最近では一月一日に働く人がいることが普通になってきたが、本当に社会としての進歩なのだろうか。
 労働に限らずとも、私には、知的な進歩を目指して努力をしても、特に幸福感や、充足感が向上するものでもない。知的な能力は私の中ではどこまでも上がるかもしれないが、他人との比較では上には上がいるし、他人との比較が、自身の満足にとって意味がないことは理屈の上では分かっている。誰それに勝ったというようなことは自己満足であり、つまらない価値に過ぎないことには既に気がついている。
 それでも知識を吸収することは、遊びのようなもので止めることもできない。人の知らないことを知っているのは単純な楽しみでもある。このような優越観に浸ることもつまらない人のあり方であることも承知のうえだ。
 特定の誰に勝ちたいということもないが、前の自分より知識を吸収したいという気持ちはなくならない。この知識は私の知的な好奇心を満足させつつも、不満を拡大させる原因でもある。
 進歩しない心のあり方もあると思うのだが、一定の心の平安の状態も「進歩」がない生き方と思えてしまう。
 進歩という概念に囚われてしまえば、抜けることはできないのだろうか。言葉に囚われ、追いたてられていると思うのだが、かといって、言葉を使って考えることを止めることもできない。