クリシュナムルティ感想7

  「私」は言葉であり、単語だ。私と言う時、私はと考える時、そこに考えとは別の私がいる、存在するように思う。「私は、〇〇さんが嫌いだ。」と考える時、その時の「私」は、嫌いだと言う。主語、主体として、その言葉と別に存在するように思う。言葉を駆使する私が、その言葉、考えとは別に高次の存在として在るように思う。
  実は、そこに誤りがある。言葉を駆使する「私」など存在しない。そこにある言葉、思考、そのものが私なのだ。「私」という言葉を使う時に、私は、何かと一体化する。アイデンティティ、自己同一化、何かと自己を同一化するのだ。私とは、本来、生の全過程であり、「私」という言葉は私ではない。この「私」という言葉が指示する対象があるだろうと思うが、それはイメージ、私はこうである。こうであるべきだ。というイメージそれが、「私」という言葉が指示する対象だ。イメージは、現実ではない。本当に存在する私とは、私の思考、私の体、感情、記憶など、生きている全過程、全活動が私なのだが、「私」と言う時、そこにあるのは、その時々の私の自身へのイメージでしかない。地位であったり、プライドであったりする。
  この私のイメージへの信奉、このイメージが馬鹿らしいものであること、このことに気が付くことが人生を見る、その哀れさ、悲嘆に気がつくことの始まりになるだろう