目を凝らして見ると在るかな?

  在るものと無いもの、在るものがどういうもので、無いものがどういうものか説明できるだろうか。素朴に言うと、目の前に在るものがあるのであって、そこに無いものがないものくらいだろうか。
  目の前にあるものがあるというけれど、パソコンが目の前にあるのだが、パソコンはキーボードと液晶画面に、ハードディスク、CPU、バッテリー等々の組み合わせでできている。私のパソコンは、キーボードのシフトキーが外れかけているのだが、外れたキーはパソコンではなくて、外れていない時はパソコンなのだろうか。けっこう多くの部品からできている物は多い。それをまとめて例えばパソコンと言っているけど、パソコンが故障した時は、それらの部品もパソコンなのだろうか。その時は、廃パソコンなのか、それとも各部品の集合になるのだろうか。
  私達が、単純に物と思っているものも、言葉による仕分けとでもいうのだろうか、一般名詞になっているものがあると思っているのだが、実際にそこにあるものは「パソコン」なのだろうか。一般名詞がそのままあるわけではない。物があるのは確かなのだが、そこにあるのはどこにでもある「パソコン」、電気屋に行けば何十台とある「パソコン」そのパソコンがあるのだろうか。
  こういうと、パソコンと呼んでいる具体な物がそこにあるんであって、「パソコン」があるわけじゃないような気になってくる。世の中のほとんどの物が「パソコン」と同じで一般名詞で呼ばれている。固有名詞にしても、結局は同じになるのだが、イチローという人がいるが「イチロー」が存在しているという時、何か抽象化された物が存在するように感じる。そこに本当にあるのは、名でなく事物のはず。
  こういう見解が唯名論なのだろうか。私は、一般的な意味ではパソコンや、イチローの存在を疑っているわけではないのだが、私達が存在していると感じている物の多くは、物を切り分けて名を付けているのは人で、物自体にファンタジーにあるような物自体の本質を表す「真の名」で呼ばれている物があるわけではない。
  本質という考え方も、物の本質というときパソコンの本質でいけば、シフトキーはパソコンの本質ではないような気がするが、シフトキーがないパソコンは使えないと言えば使えない。そうするとパソコンの本質はシフトキーやバッテリー、バックライトを含めて個々の構成部品の性質を本質とすることになる。そのバッテリーにしてもその本質はというとリチウム、電極等々、細分化されそれらの集合が本質ということになる。そうすると、本質というものが本質らしくなくなってくるのだが。
  私が存在していると思っているものは、目を凝らして見れば見る程に、小さな物からできているし、実はあいまいに存在していたりする。
  物でさえもこれだから、愛情があるとか、ないとか。学歴とか、責任感とか、目を凝らせば存在というのは、凝らすほどにあいまいで、あるのかないのか、確率論的にあるのだろうなと思うくらい。
  こういう信仰がないと、世間では生活できないけど、時々そういう世間を見ていると本当に何が存在しているのだろうと思う時がある。