意味は言葉の内にあるのか?

  意味は、言葉の中にあるのか。それとも外にあるのか。薔薇という言葉の意味は、言葉にあるのだろうか。それとも、言葉ではない「実在する薔薇」に存在するのだろうか。
  実在するバラというのが、一つの難点、「薔薇」と呼ばれる花は無数にあるが、「薔薇」そのものは存在しない。
  この時に、バラは名前に過ぎないのか、「薔薇」そのものや、「薔薇」という属性が存在すると考えるのか、これが中世の普遍論争だが、言葉の意味が言葉の中にあるのか、言葉に対応した外部、実在に意味が存在するのか。
  外部に意味がないと考えると、実在は無意味、無味乾燥した世界になる。一方、外部に意味があると考えると、人間の言葉の外に意味があり、人間は外部の実在の意味を読み取るということになる。人間が意味を作るのでなく、予め定められた外部の意味、神があたえた意味を読みとるようなイメージになる。
  薔薇の場合、外部にそれなりに対応したもの、花を見つけることができる。人生とか、生きるという場合、この時の意味、生きるという意味。この時に問われている外部の対象というものは存在するのだろうか。
  生きるとは、今、私が現に生きているのだが、このことを考える時、これは言葉の外部の対象について、考えていることになるのだろうか。ある生物を見つけて、生きるの意味を考える時、この場合、考えることができるのは、個体として生物であって、「生きる」を考えることにはならない。生命活動の特徴を考える時、これは教科書を読むようなことになるのだが、言葉によって他人に意味づけられたとしか言えない。生きるを自分で考えると、その対象となるものを、外部に見つけることはできない。
  人間は、(言葉の外部の世界に存在するのは確かだが、)考える時、言葉の内部にしかなりえない。意味が言葉の外にあるのか、言葉の中にあるのか。
  言葉にも、外部にも意味があると考えると、言葉に対応する外部の存在、真理の(言葉と外部の)対応論になるのだが、この時にはどうしても、外部に与えられた意味が必要になる、若しくは外部にある意味を読み解く、外部に実在に依存することになる。
  人生の意味を考えると、真理対応論でいけば、外部の人生と言うものに意味に対応するものが必要になるのだが、そのようなものを見つけることができるのだろうか。
  人生の意味は、見つけるものでなく、その人が作るものだと考えると、意味は言葉の側にあることになる。その時、客観的意味というものは存在しなくなる。意味は主観的なものになる。
  もう一つの考え方は、人生という言葉自体、意味がない、ありそうでなさそうなもの、そういう言葉もあるのかと
考えるか、ただ、こうして文を書いているんだから人生に意味はありそうな気はするのだが。