見ていない木は存在するのか。

  今日、いつも行く温泉施設に行ってきた。週末に時折行くことにしている。
  1人で行くので、知らない人ばかりなのだが、1人で来ている人も多い。そこには、露天風呂があり、植え込みがある。露天風呂からいつもその植え込みを見て、自分が来ていない時も、ここの植え込みには、この木があるのだろうと、思う。
  この植え込みの木は、私は数週間に1度くらい見るわけだが、私が見ようが見まいが、そこにあるのだろうと思う。ただ、あることが分かるのは私が見る時だけだ。世界中のものがそんな調子だ。昔に行った旅行先の場所についても、今もあるはずだが、あるだろうと思うだけ。
  今までに、多くの人と出会ってきたが、その人も今もどこかにいるだろうと思うだけ。きっと元気にしているのだろうが、調子を崩しているのかもしれない。
  世界中の多くのものが、この調子で私は世界にいて、そこで目にして初めて存在を確認している。一方、私を見られる立場と考えると、多くの人にとっては、私はいないのも同じ。存在が確認できないから。有名でない私は、世界にとって、私が風呂場で偶然に出会う人達と同じようなもの。通り過ぎれば存在が忘れられる存在である。
  有名であっても、結局は忘れられる時が来るのだろうが、小さな世界、会社や組織でそれなりの立場にあっても、世界から見ると、似たりよったり、多くの人がそのような存在である。
  私達は、この流れいく世界の中で漂う塵のようなものだ。世界その物さえも、塵のようなものなのかも知れない。