「もてる男」の実在論2

  「もてる男」が存在すると考えることは、一般的感覚に合致しているだろう。中学や高校のクラスには1人はそういう奴がいたものだ。
  もてる男は実在するのか、存在しているのは男であって、そこに「もてる」が加わっているのだが、端的に「もてる男」が存在しているのだろうか。C君がもてる男であるのか、もてない男であるのか、話を簡略にするためにC君が男であることに異論はないという前提にしよう。問題はもてるのか、もてないのか、さらに本質的なところだが「もてる男」や「もてない男」は、男に何らかの性質を加えた上での概念だが、この概念は存在する者と考えてよいのだろうか。
  背の高いは物理的な規約を作れば、人類を2分することも可能だろう。もてるも人数的規約何人以上の異性から好かれている(ここでは話の簡略化のために同性は含めない)とすれば、対応する人間を割り振ることが可能にはなる。この時に、好かれているという条件が実在する条件であるのか。ここに疑問が生じている。
  好かれているという、もてているということ、このことを含めて実在と考えなければ、もてる男はただの男に成り下がってしまう。もてているという性質は、その男自体に存在する性質ではない。周りの女性が持つ感情から見た、その男に対する評価である。この評価の存在を含めて存在するもの、実在と考えるのが適当なのか。この評価もその男に付加された性質と考えるのか。
  薔薇そのものが存在するかといえば、個物の薔薇が存在するだけで、薔薇という抽象的存在者そのものは存在しない。この薔薇という性質が、単なる名に過ぎないのか、この性質の実在を認めるのかで、普遍に対する考えが議論されてきた。(普遍論争)
  もてる男が存在すると考える時、もてる男とされる男は、個物として存在することを認めよう。この男に付加される「もてる」は、抽象的存在者、つまり実在ではないのではないか。もてるという評価なり付加される性質は単なる名に過ぎないのでは、という疑問が私の疑問なのだ。
  そんなことを言えば、もてる男は実在しないではないか、ということになるのだが、私の経験や感覚からすれば、もてる男は存在する。
  ただ、もてる男を実在だと考えると多くの存在者が許されることになる。実在とは、唯物論的に言うと物しかないのだが、もてる男という「物」も含めて実在と考えると、実在の範囲はとたんに大きくなろうだろう。様々な性質に分類された存在者が、この世界には実在することになる。
  人間には、男と女が存在する。その外に人間の中でも、経済学者やピザ配達人、歌手、いろんな存在者を認めるのか。歌手というのは、人に性質を加味した存在者は、実在なのだろうか。そこには、ただの音声を発している男か女しか存在しないのではないだろうか。このような世界観を認めると、AKB選挙第1位とかいう存在者も実在として認めなくてはならなくなるのでは。
  もてる男が実在するかしないかを考えると、その人が見ている世界、実在に対する考えたが見えてくるが、一方でもてる男は実在しないと言っても、それほどもてなかった自分からすると、やっぱりそういう人はいるよなとも思えてくる。
  何が実在すると考えるかで、世界を見る目が変わってくると思うのだが、いまだ何が実在しているのか、考えてもよく分からない。