風呂場での思いつき

  人は、言葉でできている。実在が何かというのが、最近よく考えるテーマだが、実在という「もの」へ人は到達できない。実在が何かと、分かったとしても、もしくは自分が定義をしても、それは言葉だ。分かったというのも、言葉で分かったのであって、本当に分かることはない。
  どういうものが世界にあるか、それを考えてみても、そこに到達することはなく、どういう風に世界を自分が見ているか、そういうことの説明ができるだけだ。
  私も、結構良い歳になったのだが、色々な責任というか、しがらみみたいなものはある。そんなものはない。と言葉で考えても、目の前の木の葉一枚ほどの重さも、責任というものには重さはないのだが、その重さに人は時に命までもかける。そんなに重たいものがあるのだろうか。言葉でしかないと頭で分かっていても、心や体は自然にその言葉に動かされる。そういう意味では言葉で、言葉に重さがないと言っても、心では重さや、体でも重さを感じているだ。だからこそ、ストレスというものも、病気も存在するのだと思う。
  私自身、そういう重さから離れて生きたいと思うし、それは一つの理想なのだが、そういう生き方ができるかと言えば、できない。
  ひょうひょうと生きる人は、こんなことは考えないだろうと、勝手に思う。そういう人ほど、言葉を使わずとも、自然とそうしているように見える。
  世の中で大切なものはなんだろうと思う今日このごろ。