どうして分かってくれないのか。

 私が妻に「□□。」と言った。妻は私に「△△。」と返事した。どちらも互いの言うことを聞いていないので、その時はそのままになってしまう。
 後で、「□□。」と言っただろ。「△△。」と言ったでしょ。となってしまった。
 子は私に、「私のことをどうして分かってくれないの。」という。内容を問い尋ね、詳細を理解しようとすると、やっぱり、「どうして分かってくれないの。」となってしまう。
 人は、多くのことで互いに理解しあえない。相手が理解することを期待しているが、私が理解して欲しい内容を相手が理解していると思うことが、私のわがままに過ぎない。 
 将棋か碁を二人で指しているとしよう。互いは同じ盤面を見ている。当たり前だが、同じルールで、同じ盤面を違う向きから眺めている。場合によっては、相手側に席を移って盤面を眺めることもできる。
 将棋や碁は、相手に自分の意図が理解されないように指す方が良い訳だが、ルールがある以上、一定相手の意図は理解できてしまう。が、完全には相手の意図は理解できない。将棋や碁は、相手の意図が理解できないことによってゲームが成立している。
 言葉でも、同じルールを使用して話をしていても、言葉という道具を使って意図のやり取りをする以上、完全には理解できないことが前提されている。相手に表示できる量に限界があり、意図を言葉に変換する際にもロス(表現が下手な人にいたっては、「あれだよ。あれ。」となってしまう。)がある以上、伝える内容には初めから制限がある。
 こちらの意図を余すところなく表現すると、「腹へった。」この言葉の背景にある意図の説明を延々としなければならない。何かを食べたいのか。事実をいっただけなのか。何かを食べさせることを要求している等々。
 普段の会話では、いつもこの面倒を省いている。もとから互いに理解しあえない、又は、しきれないことを前提として会話が成立している。その中で、私が言っていることをどうして相手は分かってくれないのか。という疑問が生じてくる。
 自分は正しいという思い込みから、自分が多くのことを省いて伝えていることを忘れ、相手は自分を理解する責任があると考えてしまう。
 表示された言葉で、多くのことを読み取ることは難しい。もし、相手の背景等をいくらかでも知っているなら、相手の言葉の意図を読み解くことはできるかもしれない。
ただ、この作業も、大きな勘違いという危険性をはらんでいる。私は子の背景をいくらか知っているがそれでも、分からない背景の方が多い。
 分からない背景を読み解くために会話をするのか、会話のために背景を知るのか。言葉の楽しみは、互いの理解の不完全さにあるのかもしれない。同じ言葉でも
受け手によって理解はことなり、その理解をぶつけあうことを楽しんでいるのだろうか。
 いつもはこれを忘れて、分からない相手が悪いと思ってしまう。
 
 子は、妻に対しては「どうして分かってくれないの。」を言っている様子がない。妻は、子に事の詳細を確認するような作業はしていない。「ふんふん。ふ~ん。」というような生返事をしているのだが。
 子の「分かってくれない。」はどうも私に肯定、自分の行為の追認を要求しているようだ。私は、相談を持ちかけられる度に、事の仔細から、その時どのような態度や対応が、世渡りとして、かつ道徳的にも正解であるのかを考えようとしていたが、そんなことではないことが後になって分かった。私は真面目に考えていたのだが、それだけではだめなようだ。
 妻の一言、言葉の力は私の言葉を超えている。
 世の中、理屈だけではないのよ。