銭湯の考え事

   私は時々、一人でいると、仕事でも、遊びでも、何故ここに、この場面にいるのだろうと思う。
 この不思議さは、この場面で私は違う人であってもいいのに、私は、この前にいてる人では何故ないのだ。というものだ。
 飲み会に行ってつまらない時、この場所に何故来てしまったのだろう、と思う。
 
 銭湯に行った。
 銭湯に一人で入っていると自分のものは何もない。湯船に入っている間は、わが身ひとつ。自分が所有するものなど何もない。周りには知らない人しかいない。私は寄る辺なさを感じてしまう。(この日はバスタオルは用意していたが、小さいタオルを忘れていた。タオル一つで寄る辺なさを感じたのかもしれない。)
 こんな時は、私が、この自分でなくてもいいんじゃないかという気分になる。私は他人であってもいいんじゃないか、という気分になる。もっと金持ちで、かっこいい自分が存在していてもいいんじゃないかとも思う。
 この不思議さは、複数の視点の可能性、今の私の視点は私の視点だが、私の視点は、自分が他者として存在する可能性もあった。他者の視点にも私がなりえた可能性を指していると思う。
 自分Aさんが他者Bさんとなっていたら、Aさんは自分ではない。又、Bさんが私だが、Aさんという特性なしにBさんである私だ。
 Aさんであった時の私と、Bさんとなった私は同じとは思えない。この時、Bさんである私はBさんの特性を持つ訳だから、私はBさんの人格を持つと言えるでのはないか。
 これでは、何も今と変わらないような気がするが、Bさんに私(もとのAさん)の心が入ったら、Bさんは、元のBさんと違ってしまうのだろうか。
 よく、ドラマで頭をぶつけて人格が入れ替わってしまうが、このあたりはどうなるのだろう。心は他人の中でも維持できるのだろうか。もはや元の他人が今の自分となっているのだが。
 世界は、Aさん、Bさんの視点から認識されている。たくさんの人の視点から世界は理解されている。Aさんが存在するなら、視点は無限に増えていくように思うのだが。この視点の中で、世界の中で何故、自分はAさんなのだろう。
 私は、私をAさんとして生き続けている。今さら違う人になりようもない。Aさんの環境は、私のこれまでの生活で私が選択した結果だ。Bさんになれたらいいと思ってもBさんの環境は私には入手不可能であることは、はっきりしている。むしろ、Aさんとして、Bさんの環境に近づくしかない。努力しても、どうしても私はAさんである。
 この選択不可能な中で、私は様々なありえたかもしれない可能性(現実には可能性はない。)を夢見ているのだろう。
 難しい言葉を並べても、少年漫画の主人公にあこがれる昔の、今の自分と何も変わりがない。