記号と世界

  高校生の下の子が現国の評論で言語学をやっていて、ソシュールの研究者の書いた評論を読んでいると言った話をしてくれた。
  私が高校生の頃は、ソシュールも知らなければ、記号論も知らなかった。そこでどんなことが書いてあるのかは分からないのだが、シニフィエシニフィアン、ロゴスや差異という語がでてくるらしい。国語の範囲を超えているようにも思うのだが、子が言うには皆分かっていないんじゃないかなということだ。
  それもそうだと思う。世界が記号からできている。なんて話は高校生の時には思いもしなかったし、今でも世の中の多くの人はそういう理解をする人は少ない方だろうと思う。
  世界は、記号でできているという時、視覚や聴覚においてさえも、記号による理解、言葉による理解、負荷していることを意味している。世界を人が理解する時、人は記号を読み取ることしかできない。世界の何らかの意味を理解しようとする時、人は言葉により意味をつける。この意味づけ、世界の意味を読み取ることは、世界そのものを体験、感覚するのでなく、言葉を用いて読みとる。カントが言う物自体は体験できない。物自体でなく、何らかの物が表象する記号、記号の意味を体験することしかできない、というか物を識別できるのは記号の力であり、世界の中から一つのものを名づけ取り出して、識別しているのは、その物が記号、何らかの名称として理解されているからだ。
  この記号による世界は、感覚、印象だけでなく、価値判断についても、記号によっている。男は男らしく、強くあれ。とかこういうものも一つの記号である。不良はバイクに乗るとか、金持ちとヤクザはベンツに乗るとか、こういうのはステイタスを示す一つの記号である。しつこいが、成人式で馬鹿騒ぎするのも一つの記号的行為であろう。
  人が理解する世界は、記号から構成され、記号を組み合わせた命題により構成されている。この構成された世界は、私の私的な世界である。私の記号の体系(語彙)が私の世界であるのだが、この体系は、言語を使用している上で、公共性を持っている。それが私と私的世界の外部との交渉、接点となる。
  私は、公共性のある世界の中で暮らしながら、私的世界の中に生きている。
  世界に反逆するということは、この公共性の世界の中で、騒いだところで公共性の枠の中に納まってしまうのは、当たり前のことである。成人式にでかけて騒いでいるのは、この公共性の中で騒いでいるに過ぎない。本当に反逆したいのであれば、公共性に関心を持たないことだと思うが、言語の公共性の中で本当に反逆ということが可能で在るのか。反逆とはどういう意味になるのか。
  結局、意味に囚われる範囲で、反逆は失敗しているように思う。人は記号に囚われた存在なのだろう。