共約性

  今日は成人式、例年面白い記事が飛び出す。頭が子供、体は大人の人々が威勢をはって騒いでしまう。
  まじめな人の方が多いのだが、声が大きいこの人達は、目立ちたがる。普段、目立つような仕事がさせてもらえない立場の鬱憤なのか。
  動物行動学の立場から考えると、異性へのアピールがこのような屈折した形、鳥が求愛行動にダンスを踊ったり、青色のものを拾ったり、そんなものだと思う。えりあしの長い髪形をみると進化論的に尾が伸びてしまった尾長鳥を思い出す。あまりに尾が長い尾長鳥は捕食されて絶えてしまう。落ち着いたのが今のあたり社会に反逆しているつもりなんだろうけど、枠の中で騒いでいるにすぎない、本当に反逆できずに落ち着いたのが成人式で騒ぐくらいのある意味、予定調和。 
  実際の勇気や、気概、社会に反逆するというのは、成人式で目立つことでも何でもないんだけど、そういうことに気がつかないままに過ごしているんだろうと思う。
  社会や世間に背を向けたいのなら、そういう生き方もあると思うが、暖かい世間の中には居たい、そういうところで落ち着いた人々なんだろうと思う。
  一方、世の中のそういう人から見て、私が考えるようなことは全く価値がないんだろうと思うし、次元が違う世界で生きているんだろうと思う。
  世の中は、各個人の世界(私的世界)が同一のフィールド、物理的な空間の中に配置される共通世界なんだと思う。この共通世界というのは、一般的な世界の理解でよいと思うのだが、その中にも私的世界と公共世界が存在するんだと考えているのだが、公共世界は言語を通した意志の理解、共約性とでもいう世界。私的世界は、言語を使用しているので、公共世界から切り離されているわけではないのだが、相互理解の必要がない世界。ある意味自己完結、違う意味では言語に依存する意味では、他者の存在、言語の存在に依存しているが。
  共通世界は、見方(私の視点)によれば私的世界であるのだが、私の視点の外の視点の存在が前提されている。だからこそ、共通世界である。他者と自己が交わるところ、ここが公共世界、私的世界と言えども公共世界に交わらずに存在することができない。自己の保存は、公共世界との関わりいかんによっているのだから。
  この公共世界での交わりが、社会的な階層、職種、教養の程度等、何らかの次元が違う人々の間では物理的な接触も少ないうえ、考え方の相違が非常に大きいので理解不可能、共約性が極めて低いのだろうと思う。
  成人式の吠え声は、こういうところから表れてくるのだろうと思う。誰も理解してくれないと。
  共約性を目指してないのだから当たり前のことなのだが。