悪についてのメモ

  悪とは何か、悪が存在するのは何故か。何故、人は悪となるのか。漠然としたテーマだが、最近時々考える。
  人がいれば、悪が存在する。このことは確かだろう。人のいないところに悪は存在しない。そういう意味では、悪は人が生み出した。 
  自然界に悪は存在しない。こう言うと、詰まるところ、人が何をしても、客観的に悪というものが存在しないことになる。地球を破壊する能力が人にはあるが、地球の破壊が悪にはならないということだ。この場合、人がいないんだから、悪という言葉そのものが消え去っているだろう。
  悪ということは、民族を問わず、社会を問わず共通で理解可能な概念だと思う。悪の概念が通じないのは、社会化されていない子供くらいだろう。この点でも、悪は言葉における存在、では人が殺されることは、事実、行為としての殺害は悪ではないのか。死刑制度が悪であるかどうか議論があるところだが、事実や行為自体が同じであるとしても、その評価は必ずしも悪にはならない。戦争での英雄は、殺害という事実や行為は同じであるが、その意味付けが異なることによって、悪をまぬがれると考える人もいる。
  悪の相対化、相対主義というものは、人への落とし穴であろう。一方で、悪に対する絶対評価の可能性、神の視点の主張自体が悪である可能性もある。この主張ほど、人類の歴史で最悪の主張とさえ言えるのかもしれない。では、悪はどうして評価されるのか、公正な議論の場で悪の共通理解を得ることに期待するしかないのか。
これも、悪の主張の平行線をたどることで、これまでどおり。
  この悪の主張の平行線、これが悪がなくならない理由であり原因か。悪の発生の原因であるのかもしれない。子供でさえも、悪をなすことができるのだが、意図するか、しないかに限らず、悪は被害者にとっての悪というものが存在する。善意で悪をなす可能性、これも互いの悪を理解できない原因、現象なのかと思う。
  悪が存在するし、絶対的な悪というものも直感的には存在するのだと思うのだが、この存在によって、正義という観念も存在するのだろうと思うが、絶対的な正義の方は、どうも直感的には存在しないように思う。こういうと信仰の世界にたどりつくのだろうと思うが、この絶対的な正義というもの、その考え自体が悪の感じがしてくる。それほどに人の知性は正しいことを直感できないのだろうと思う。相対的な悪は困るが、正義は相対的であることを認識している必要性の方が高い。