音楽と気晴らし

  ボブ・ジェームスのアルバムをユーチューブで聴いている。学生時代にLPで持っていたのだが。
当、時、はそれなりに人気があったのだが、今はどうなのだろうか。
  休日にすることもなく、音楽を聴いているのはいいものだ。
  人は、何かやることが常に欲しいものだ。何か手持ちぶさたなのが、許せない。その時には、自分の存在がいかに小さいか、このことに直面するからだ。自分自身が何者でもなく、ただこの身ひとつ。色々な虚栄、肩書きそういうものが、ただ1人になると意味をなくすから。
  子の存在は、大きなものだが子もいつかは自分の手からは、離れていく。自分自身の写しではないし、虚栄を満足させる手段でもない。自分は、ただ1人自分であり、子の存在で永続するものではない。
  いつかは、消えいく存在である。このことを感じるのが、恐怖であり寂しさなのだろう。だから人は、1人にならず、誰かと気晴らしをする。自分が存在することを、何らかの役割を担っていることを確認するために。
  多くのことに人は、夢中になり自己を忘れるのだが、このことが幸せと思いなし、夢中であることから目が覚めると幸せを探し始める。それは、ことなる種類の気晴らしでしかない。
  永遠とこの繰り返しを行い、いつかは消えていく存在なのである。
  この消えていく存在であることに耐えられず、人は自分の生きた跡を残そうとあくせくとするのであるが、それも消え去るものである。そのことに、薄々感じるが故に、人は気晴らしへと身を投じるのだ。
  この消えいく存在であること、自分が何者でもないことに、ちっぽけな自分に満足をすることをひとりになる時に気がつかねばならない。