悪と普遍論争

  悪とは何か、悪が実在するか。と訊かれると、何かはともかく悪いことがいっぱい世の中にあるじゃないか。この悪いことが悪じゃないのか。というくらいが一般的感覚だろうか。
  悪いことが悪と言ってしまうと循環論法になっているので、では何が悪いことなのか。と訊くことになる。
  世の中に、悪いことはたくさんあるだろう。そういう意味では悪は実在する。これも一般的感覚だろう。
  ここで、もう少し考えてみよう。
  悪いことは、何故悪いと言われるのか。悪い要素があるからなのか。何か「悪」と言われるものに共通する要素が存在するのか。悪いことでなく、「悪」そのものは存在するのか。まじりっけなしの「悪」そのものはあるのか。
  まじりっけなしの悪を見たことがある人は、極限体験をした人以外にはまずないだろう。その極限が「悪」そのものであるかどうか。「悪」を表象する人物、例えばヒットラーは、自殺する前に、結婚をしている。これが悪そのものなのか。
  人間の本性の一部にその悪があるのか。悪とは、行動や行為なのか。どこに悪があるのか。行為の中に悪があるとするならば、人そのものが悪ではなく、その行為が悪となる。行為は実在するのか。人間の行為という意味のある動作の連関は、人の解釈の中にあるとすれば、悪は人の解釈の中にあることになる。
  悪という要素が人の中にある。悪という要素が行為の中にある。人の中にある悪というものは、顕在化、表現されなければ悪とは言えないと考えると、どうしても行為の中に悪を見出さなければならない。
  行為という解釈の中に悪があるとれば、悪は実在しない。歴史的事実が過去にあったことは認めても、それが実在であるとは、言えない。「こと」の場合、「物」ではないからだ。
  存在するものが、「物」であり、概念や語は存在しないと考えると、悪というものは詰まるところ、実在でなく、概念としての存在、数が存在するというのと同次元での存在でしかない。
  こう考えると、悪という普遍が実在しない。悪という普遍は音や概念でしかない。それに対応する悪の本質というものも人には存在しないし、行為の中に存在する悪というものも、数と同次元の存在であって、実在ではない。便宜上の存在と考える。
  では、悪が実在しないなら、反対概念である善はどうだろうか。
  善が実在しないのであれば、究極の善である存在者は存在しないということにならないだろうか。
  中世の普遍論争が白熱したのは、こんな結論からなのだろうか。このあたりの事情が分からないのだが、実在論者であれば問題ないが、唯名論者は究極の善である存在者についてはどう考えていたのだろうか。
  このあたりのつじつまが合う理屈があったのだろうか。