法事を終えて。

今日、法事が終わった。
百か日の法要だったが、納骨も一緒にした。
これまで何だかんだと大変だったが、一区切りついたものと思う。
遺族にとって、気持ちを切り替える大きな節目だ。

ここで、私自身の信仰という宗教への考え方を書いておこうと思う。

仏については、人間ガウタマ・シッダールタとしての仏は好きだ。現在の日本の宗教で解釈されているような、仏については、ほとんど興味がない。人を救うことができる。とか言うお題目は、死後の世界を見たかのようやことだ。ガウタマ自身は死後のことなど分からないと言っているのだが、どうしたらそんなことになるのか。岩波書店からは良い翻訳本があるのだから、お経を覚えるよりも、そちらをよく読めば良いのにと思うくらいだ。
自分で判断せずにどうして、人の言うことを信じるのか。
生きるとは、人に教えてもらうことではない。自分が考えることだ。

ただ、人の気持ちの区切りをつけるための儀式としての宗教、その効果はほんとうにあると思う。ただ、それは残された遺族の気持ちの問題としてだ。
それでも、私はお経を読んでくれた僧侶には敬意を払うし、その人の善意というものを信用している。私の世俗宗教への信仰とは、一人ひとりの僧侶や神官の方の善意が前提になっている。
神社のお参りも好きと言えば好きだ。何か神々しさを感じるのは確かだ。もっとも、自然地形に感嘆していることがほとんどではあるが。故に、大金を要求する信仰というものは信用していいない。

私自身は、他人に成仏させてもらうことができるとは思っていない。私を照らすことができるのは、私の思惟の力だけだ。私が私の光である、私が照らす先に世界があると思っている。まあもっとも、この光は私しか照らすことができないのだが。私が死ねば、私はちりになるだろう。それが私と言う思惟の世界から物理的な世界に帰るというそれだけ。これを成仏と言えば成仏でないかと思っている。こんなことは、言ったもの勝ち、信じたものが信仰だろうと思う。