ひとりあること。

  社会の中で生きていて、それでいて一人であることに気づくこと。
ひとりよがりになれということではない。どれだけ友人がいようが、家族がいても一人であることに気がつくことが重要だ。
  日常でも、実は一人だということに気づくこと。
  世界は、だれだけ広くともやはり私の世界であって、私が認識しているこの世界は、私という存在に、その全ての成立がかかっている。この意味で私は一人なのだ。誰かと、「私が認識しているこの世界」というものを共有することはない。この点では、私というものは、誰もが絶対的に孤独な存在だ。
  
  私という存在を中心にして世界が拡がりを持つのだが、日常生活でそのことに気がつくことは少ない。あくせくと、社会システムの中で暮らしていれば、自分がむしろ末端という考え、自分の代替可能性は社会システムの中では当然のことだ。このギャップが日常性と非日常なのだ。
  
  最近、ブルックナー交響曲をよく聴くのだが、私が一人いるということを何故か感じさせる。
たくさんの人で演奏しているのだが、孤独な音楽を感じる。これが非日常の感覚だと思う。

  ブルックナーの音楽には静寂があり、この音楽を中心として、世界の広がりを感じるのだろう。この音楽を聴く私は、そこに一人しかいない。ライブを聴きに行くこともあるのだが、この音楽の体験は、内的である。同じように感動する聴衆がいても、私自身、拍手をしていてもやはり体験は個人的だ。この体験自体は共有できるものではない。共感ということはあるが、これは類推であり、直接他人の体験を感じているわけではない。