概念は実在するか。

概念は実在するか。
実在というところが、問題なんだろう。普通に概念は存在するものとして生活をしている。日常言語では、学校や会社に行ってくるというようなことを普通に言っている。
学校は、どこに実在するのか。建物が学校かというとそうでもない。廃校になった学校は、もはや建物でしかない。学校は概念上存在するのだが、日常ではこれを実在の存在として考えている。
言語を使用する際に、こんなことを考えながら使用していては、何も言えなくなるので通常は考えない。しかし、会話だけでなく思考というレベルにおいても、学校は存在するものと普段は考えている。
みな、私というものは存在すると思っているが、実は私という存在も概念上の存在だと考えることもできる。
私という存在が概念だとすると、まあまさに概念であるのだが、思っている私と実際の私の食い違いが起こる時に、人は悩んでいるだがこれは、まさに私が概念である証拠でもある。なりたい私と本当の私、そもそも本当の私って、本当でない私なんて存在するのかとも思うが。
概念が実在ではないと考える時、人は何に悩んだり、苦しんだりしているのだろうと思う。全て空想上の出来事のように思うのだが、概念が実在する。臨在すると考える時、真剣に悩むのだろう。肉体的レベルで痛いとか、空腹だというのと、概念上の悩みとは大きく違う。人は落胆するし、おだてられると、誉められると気持ちがよくなるものだ。何故、落胆し喜ぶのだろう。
自分の概念上の私と、人に評価された時の私、これの相違がこのような気持ちを生み出すのだろうと思う。
人の評価にしろ、自分の概念上の私にしろ、そのようなものが存在するのか。そしてそれがどのような意味があるのか。
概念上の私が大きくなるとき、現実の私が小さいことに気がつくとき、私というものがどんな人であろうが、大きさなど変わらないものだと思う。偉大な気持ちがするかしないかだろう。ある意味、自己満足、どんなに人に評価されようが、結局は自己満足しかない。何せ私の最終的な評価者は私しかいないのだから。
概念が実在しないと考えると、世界は意味を有さない。意味とは概念そのものであり、概念が意味だからだ。実在とは、この無意味の世界を意味すると思う。
そういう意味では世界には意味はなく、私の側に意味が存在する。