人生ゲーム論 2

 人生ゲームの作り手は私であり、私がゲームのフィールドと枠となる規則、目的を決めている。ゲームのフィールドとは、私が生活している場所だ。ゲームの規則と目的は、私がこれまでに受け入れてきた言語や、この言語に基づく世界観から構成されている。
 私は、日本語を使用しているので、日本語に基づいて発想し思考しているし、価値観も、西洋的思想を受け入れつつも、意識しなくとも日本社会のものだ。権利や義務などは、もとは日本語になかった言葉だが、日本語に翻訳された意味で、日本社会での使用の仕方を受け入れている。
 私は、日本社会で、日本語によって人生ゲームを繰り広げている。
 私が、人生ゲームを作っているのだから、私が自由にゲームの枠とルールを変更できるのだが、そうも簡単にはいかない。
 このゲームのフィールドは、私が生まれた時に初期値として決められ、使用するルールも生まれた時から、与え続けられている。もちろん初期値が与えられただけであるので、これまでにゲームで築きあげた装備類と経験値を失う勇気があれば、リセットすること、準備すればフィールドとルールを変えていくことができるだろう。(フィールドとルールの変更は、生存自体を危険にするものだ。)
 仮にこれらの条件を変更しても、依然としてフィールドとルールは存在する。いかに自分がフィールドとルールを変更したと思っても、変更しただけだ。私は、このゲームから飛び出すことができない。私は変更したフィールドとルールを支配をするが、またこれらに私は支配されることとなる。
 どうしても私は、このゲームから抜け出すことはできない。
 
 このゲームの輪廻から抜けることは難しい。私は、このゲームから抜けることはできないだろうが、私が解釈したゲームであることは分かっている。このフィールドもルールも私が選び続けた結果であるし、部分的には変更することも可能ではあることも分かった。その上で、生活している。
私のゲームの解釈は決まったものではない。この解釈はいつも変更する危機にさらされていると言っても良いのかもしれない。
 私のゲームの目的は、ゲームの目的を探し、解釈を続けることかもしれない。これも私のゲームの解釈だ。
  日々、言葉のゲームに囚われながらも、言葉のゲームを超える可能性はあると思う。言葉でない喜びのある生活をする人は、その時このゲームを越えているのだと思う。
 私は山を歩いたり、川辺を自転車で走ることが好きだ。この時は、少しでも言葉のゲームを忘れているのかもしれない。
 私は、日々が言葉のゲームであることを知りつつ生活している。
 日々が言葉のゲームであると考えると空しくなることもあるが、つまらない出来事に囚われている自分に気がつくこともある。気がついてもどうにも考えが止まらないこともあるが、ゲームであればこのゲームを楽しむこともできる。
 このゲームに疲れたら、休息をとればいい。