言葉へのこだわり

 人は、誰も自分の意見に固執し、自分の権利を守る。これは、悪いことではない。良いことと言えるかは分からないが。
 何故、自分の意見が正しいと言えるのだろう。ひとえに、自分の意見が正しいと仮定しないと、自分の意見が成立しないからだろう。
 だが、これが仮定であることは忘れ去られている。相手の意見を聞き、自分の意見を自分から離れて見る。第三者が見ているように見る。
 それでも第三者が正しいとも限らない。少数派であっても正しい意見である可能性はある。自分の意見を多数決に委ねるなら、自分の意見でもない。
 意見の正しさは、論理性と倫理性の適正さで決まるのだろうが、それが適正であるかどうかを決定するのは自分だ。自分一人が間違っている判断をしていては、社会的に相手にされなくなることはあるが。
 力関係が変わるほどに意見が長持ちすれば、倫理性については、時代ごとに変化してしまう。新聞の論調によって事件の評価が変わるようなものだ。
 論理性は、そうそう変化しないはずだが、世の中には論理的でない人も多い。論理的であるかないかも、それを決める人が、自分の価値観で決めてしまうので、論理性とは別物になっていることがある。「屁理屈を言うな。」と言えば、論理性のない人は納得してしまう。とりあえずは、声の大きい人の勝ち。後で間違いが見つかることもある。
 「屁理屈」のどこが屁理屈であるのかが重要であり、そこで屁理屈であるかないかが決定されるはずだが、屁理屈ということで物事を処理しようとする人には、分析するという行為はない。
 子供の頃、従兄弟が「世の中に絶対ということはない。」と言った。「それは絶対か。」と尋ねたことがある。その時、答えはなかった。
 従兄弟が言った意味は分かるが、パラドックスではある。この頃から、私は言葉にこだわっていたのだろう。