言葉と人生ゲーム

 人生が、言語による壮大なゲームに思えるときがある。子供の頃は感じなかったことだが。昨日は、ドラマで信長が滅してしまった。こんなのを見るとそう思ってしまう。
 
 言語は、パズルゲームに近い、単語と単語を組み合わせると、文が生じ、文を有機的に構成してやると物語になる。
 会話の構成は、推論を相手方に投げかけ、相手は投げかけられた言葉に対し、自分の推論から返答を行う。互いに投げかけている時は、自分の視点からの風景を、言葉にし伝えているに過ぎない。私は、他人の視点からの風景が分からないので、それを相手に聞く、互い見ているものの風景の確認作業が会話である。面白い会話は、相手の推論と自分の推論との間に大きな差が生じた時に生まれるのだと思う。
 一人でもの事を考えるときも、自分の中に会話が生じている。考える作業は、基本的に、自分の中の会話だ。常に会話をしている自分は、言語によるパズルを組み立てるプレイヤーだ。
 生を言葉によって語り始めるとゲームとなる。人生を物語として面白く語ることもできるし、目的として面白く語ることもできる。前者は伝記で、後者は人生論となる。生を考えれば、どうしても言語のパズルゲームの中に組み込まれてしまう。考える行為が言語に頼っている以上は、必然そうなる。
 私の目の前にあるこの世界は自分以外のプレイヤーが存在し、皆が、それぞれが自分のゲームを、「億万長者の土地」を目指している。しかし、必然だれもそこには到着できない。
 ボードゲームではそこが終着だが、現実の生に、そんな終着点はない。現実では、そこで生が終わるという出来事が待ち受けているだけだ。人生自体は、ゲームではない。事実としての生存があるだけだ。
 この言葉のゲームは、現実の生に、どのような意味、面白みを見つけるのか。
 一つの生であっても解釈があり、解釈によって様々な物語を作ることができるだろう。人それぞれが、解釈を持つことができる。
 人の生は、その人だけが知る物語であり、連綿としたエピソードで構成されている。ただ、この物語は言語で全てを語ることはできない。自分の生についても、その人が言葉で表現できるのは全体の一部にすぎない。第三者は、この物語の一部を切り取る。ある方角から見た一面を物語るだけだ。
 一方で、この一面的な物語を、またその物語の解釈たる教条、言葉に、人はしがみつき、心に、この教条に従って、営々と城を築いている。
 そして現実の世界で、このゲームの延長と拡大、実現化をしている。
 生は、言葉のゲームではない。生のために言葉を使用すべきであるのに。言葉で作られたもののため、言葉に規定されたものに生を費やしている。言葉で生を解釈すべきであるのに、解釈から生が規定されている。両者は営々としたサイクルとして、解釈し、規定され、またそれを解釈し、規定する。この営みが止まったところが、教条主義に陥るのだろう。
 では、どうすれば良いのか。
 私は、言葉のゲームプレイヤーだ。私の言葉による人生ゲームは、私が解釈しなければならない。また私の解釈でしかないこと。私は人生ゲームのプレイヤーであると同時に、私が当のゲームの作り手であることを認識することだ。
 こうすれば正しいということは、言葉で説明することはできないだろう。正しい解釈というものを自分で作ったり、人に教えてもらっても、違う教条を知ることになるだけだろう。
 
 散歩にでも行こう。