風呂屋での思いつき

今日も風呂に行ってきた。週末になると風呂に行くのが楽しみになっている。
ささやかな楽しみであるが、多くの人がそのように楽しんでいるのだろう。
私が行く風呂屋には壷風呂というのがものがある。人がひとり入れるだけの大きな陶器の風呂だ。その中に一人つかるのが最近のお気に入りだ。
この壷風呂は、温度設定が低めに設定されているので、ゆっくりと一人でつかることができるのだ。
自分だけの小さなスペースに小さな満足がある。別にたいしたことではないのだが、ほんの小さな空間に入ることで満足することができる。壷風呂に入りながら、私達の世界はこんなちっぽけな空間の取り合いや、小さな空間での出来事、はたから見ればコップの中の出来事にあくせくとしているのだろうと思う。
日常の会社での小さな互い違いなど、論理空間、言葉の中の世界での争いごとに過ぎない。
にもかかわらず、私達は日常の言葉のやりとりに一喜一憂し、誉められると喜び、けなされると憤慨している自分がいる。
言葉の世界は仮想空間なのだが、この言葉が自分に向かってきたとき、リアルにそこに言葉が指示するものがあると思ってしまう。このあたり、馬鹿と言われた時にBAKAという音があるだけなのか。馬鹿に相当する概念が指示する状況が自分に、または自分の行為が在るのか。在るという意味を考え出すとややこしいのだが。これもまた言葉遊びの一つだ。
普段は、自分の考えこそが正しいと、真実、言語の世界の中で悪戦苦闘をしている。
小さな風呂に入ってしまえば言語上のやりとりなど、言葉のゲームに過ぎない。私の命や健康がどうのこうのという問題ではない。風呂の気持ちのよさにくらべれば何でもないとも言える。
かといって社会生活に言葉が必要、むしろ言葉、論理規則の中でで生きているようなものだ。料理ひとつ作るにも、手順を考えるには言葉が必要だ。言葉なしに何一つできないだろう。
言葉の限界を知りつつ、言葉の世界に生きる。価値観という枠の中で、価値と言うフィルターを通して世界をみる。このフィルターを少し外すのが風呂屋という場所だろうか。

私が、言葉の外の世界を語ることはできない。考えることさえできない。
風呂や、音楽というようなものだけが私が言葉を超える手段ではないかと思う。