存在の不思議

何が存在するか。こんなことを不思議に考えている何て言えば、何を言ってるの。という感じだろうか。
身のまわりには色んなものが存在するじゃないか。
私や君が存在するじゃないか。私と君が存在しないとでも言うのかい。
今、この文の君は空想だけどね。確かに私は存在するのではないか。でも私が存在するとどうして言えるのだろうか。存在する私とは、私の定義は何だろうか。
私の体が存在するのだろうか。私の思考は存在するのだろうか。体は、目に見えるけど、思考は目に見えないし、掴むこともできないよね。思考が仮に存在するとすれば、ペガサスのような概念も存在することになる。
存在するという言葉をどのように使うかが問題だけど、ペガサスは存在するかと聞かれれば存在しない。というのが正解だろう。でも、ペガサスの概念は存在すると言えるか。言葉が使用できるいる以上は、その語、概念は存在するといえる。
でも、ここで問いたいのは、概念の存在でなく、実体のあるリアルな存在は何かが知りたい。私というリアルな実体とは、何か目に見える私の体が私の存在なのだろうか。何か違うような気がする。
語で、リアルな個体を指示しているのは固有名詞や代名詞くらいだろう。普段使う言葉のほとんどは、一般名詞で、普段の思考は一般名詞で済ましているような気がする。
一般名詞が溢れているわけだが、それをリアルとして済ましているが、不思議に思えば一般名詞が指すものが本当に存在しているのだろうか。本と言っても一つとして同じ本は、現実にはない。これは同じ葉を森でいくら探しても存在しないのと同じことだ。
世界は個体に溢れているのだが、人は一般名詞で認識しなくては、そのものに近づくことはできない。
葉は、葉として見るから葉に見えるのであって、はじめから葉というものを知らなければ、葉を葉として見ることはできない。葉として見えてこそ近づくことができる。
そうであればこそ、人はリアルに何が存在するかを知ることは難しいのではないだろうか。