「べき」の思考と限界

 英語を勉強し始めた子に、「父さんは、べきmustが多いよ。しようwillが少ないよ。世の中は、良い悪いの2択でないよ。」と言われた。
 私は、とくに「べき」について考えていた直後なので驚いてしまった。「本当にそのとおりだ。気をつけるよ。」と答えた。
 子供の指摘はするどい。
 指摘されたとおり、私の思考はどうも「べき」の思考、義務の有無、良い悪いの二元論に導かれやすい。また、傍観者的なところもwillが少ない原因かもしれない。
 これを回避するのが、「しよう」の思考か。そこに良い悪いの価値判断がない。意思と力があれば行為が成立する。
 ではこの意思をどのようにコントロールしたらいい。「しよう」の思考があれば何でもできる訳でもない。
 「しよう」の思考をコントロールをするのが、「べき」の思考か。
 「べき」の思考が多いのがよくないことは、直感的には理解できるが、理屈の上で何がよくないかを考えたくなってしまう。
 もっと軽くいこうよと言えばいいのだろうか。
 「べき」の思考の場合、問い尋ねれば、出てきた回答が正しいか再度問い直すという際限がない行為をしなければいけない。新喜劇では寛平ちゃんが「何がじゃ、どうしてじゃ、」とこの台詞を繰り返す。この台詞は、際限のない問いに笑いがあることを指摘している。私が考える内容は、この台詞と同じかもしれない。考えて何になるのだろう。
 今は、子が言うことに気をつけて、「しよう」が多くなるよう心がけよう。