価値と観察 4

  喜びや怒りの対象は、ではどうやって日常で取捨選択している、していくのだろう。
 私が喜んだものが、本当に喜んでよいものか。
 誰かが、私をに向かって笑みを浮かべたとしよう。彼女は私に微笑んだのか、それとも、あざけりを見せたのだろうか。この判断を、その時々に行っている。彼女が私から見てどのような立場にいるのか。私は、彼女へのこれまでの理解から判断している。知らない女性に笑われると、自分が当惑するのはこのせいだろう。彼女は私に好意を持っているのだろうか。
 思っていた判断も、ひょっとすると、間違いがある。これまで嫌なやつと思っていたが、ある時を境に、嫌なやつがいいやつになる時がある。
 喜びの対象は、私が喜びつつ、その喜びに価値があるか、その時々に思い起こし検証しなければならない。今は、本当に喜ぶ対象にふさわしいと思っても、時間が経過すると、このことも間違いであったと思うことがある。
 喜びや怒りの対象の価値は、その時々の自分の立ち位置で変わってくるものだろう。自分の置かれた社会環境から、また価値観から、これまでと同じものであっても対象の価値が変化してしまう。
 固定した私というものが存在しない以上、私を写し込む対象となるものの価値もまた変化するし、対象自体も常に同じものが継続しつづけるわけではない。
 喜びや怒りの対象の価値の変化は、私の価値を写し込んだ私自身の変化の反映であるし、対象自体が変化することがあれば、私に向かって私を変化させる作用を持つ。私と、喜びや怒りの対象は、いつも会話をしている。
 面白い、面白くない。腹が立つ、何に腹を立てているのだろう。このことの繰り返しが、本当に喜ぶべきもの、怒るべきものを決めている。 
 社会共通の本当に喜ぶべきもの、怒るべきものを決めることはできない。最大公約数的なものを見つけることはできるだろうが、結局は偏差の問題に落ち着いてしまう。私の中においても、共通したものを探しても結局は偏差の問題となるだろう。
 普遍的な価値というものには、魅力を感じるが、その普遍性の判断は結局は、自分が行うしかない。「社会が言うから、普遍的な価値だ。」と言われてもそれを受け入れるか、受け入れないかは、私次第では普遍性とは言えない。私が除外された普遍性など、私が受け入れる訳がない。
 
 私は、日々に生活する者であり、日々に考える者なのだろう。
 また、日々に不満を感じ、また小さなできごとに満足し、生活をしよう。