価値の観察 3

 自分が、喜ぶべきもの、怒るべきものの選択は、どうして決めればよいのだろう。
 人は、知らず知らずに喜び怒り生活をしている。その対象となるものが、常に目の前に存在している。人は、意識せずともその対象の選択を繰り返している。
 その対象の選択が正しいかどうかを再度、意識して問いただすと、日ごろの選択の基準は嗜好的であり、直感的であり規則性はないように思う。
 喜びや、怒り自体は、動物としての人の本能として生存のために組み込まれたものと思う。これがない人は、動物として生存が難しいだろう。
 この喜びや、怒りは、感情だ。これのない生は、実につまらないものになるだろう。やはり、私は喜び、怒りたい。
 ただ、その対象が本当に喜ぶべきもの、怒るべきものかは、喜び、怒った後に観察したい。誰しも、何でこんなに怒っていたのだろう。何を喜んでいたのだろうと思うときがある。この時が、観察の時だと思う。
 自分を自分のそばに置かず眺めてみる。自分を応援するのでなくただ眺めてみる。私はこれをすると、私は何をやっているのだろうと思うことが多い。そうした時に、自分が喜ぶ価値のあるもの、怒る価値のあるものがあれば良いと思う。自分が喜ぶ対象は、眺めてみるとつまらない。怒るものもつまらないことが多い。その時は私自身もつまらない者に思える。
 私は、本当に喜ぶべきもの、怒るべきものの姿、存在を求めたくなってしまう。どこか自分の外にそのような物が存在するはずだ。私は、まだそれに出会っていないと考えたくなってしまう。
 ところが、そんな物は無いことに薄々気がついている。喜びや、怒りは自分の感情に過ぎない。この感情は第三者が見れば全く理解できない可能性のあるものだ。
 そこに、この感情を元として本当に喜ぶべきもの、怒るべきものという対象が物として存在するかのように考えれば、私は何物かに私の価値を写し込んだことになる。 早晩この本当に喜ぶべきもの、怒るべきものが、本当に価値を有するか、観察することになるだろう。
 私は、ここで喜ぶべきもの、怒るべきものというモデルを捨てよう。喜びや、怒りの対象は、常に自分が取捨選択する必要がある。いつの日か、理想の対象を見つけることができるというのは幻想だ。
 喜ぶべき、怒るべきということは、べきという義務から生じたことだ。私が、目指すところが何か分からない目標(この目標を作るとまた、理想の対象を作ることとなり、それが本当に価値があるかを考えることになってしまう。)に近づくための行動への義務。これから「べき」ということが生じたのだと思う。
 喜びや、怒りは、義務ではない。では観察した後に、何を私はするのだろう。私には、指針がないことが分かってしまった。私は、指針を作ることは可能だろうが、常にその指針は、私に改めて観察されなければならない。
 漂流者の気分だが、これも一つの成果だろう。この成果もいつか見直さなければならない。常に、フィードバックし進んでいく生命の姿のようだ。
 何か、かっこうがいい気がするが、これも見直さなければいけないのか。