色即是空と空即是色について

「色即是空、空即是色」
分かったようで、分からない言葉である。これを私風に理解するとこんな感じだ。

色は、カテゴリー(分類)や記号を意味する。人は、カテゴリーや記号の働きなしに物と見ることも、感じることもできない。熱いものや、冷たいもの、視覚や嗅覚、動物としての感覚は、カテゴリーや記号を理解できなくても、そのままに感じる。ところが、人、人間としての感覚は、カテゴリーや記号無しには感じることができない。「痛い!」この感覚は、動物的な感覚であるが、痛いと口に出して言うと感覚を超えて、痛みは表象され、誰かに何かを伝えたい。もしくは慰めて欲しい。という感じに変化している。

リンゴをリンゴとして視覚で捕らえることができるのは、リンゴを知っているからこれをリンゴとして視覚で捕らえる。人間の視覚は、知識により捕らえられているところが大きい。文字が形状やシミでなく、文字として読めるのは、知識によるところだ。
これが、色の意味。色とは、知識、記号、価値観による世界理解、人が理解していることの全てが色だ。
この色は、本当に存在するのだろうか。存在の意味を問うことになるのだが、実数は本当に実に存在する数なのか。数が存在するとはどういうことか。数は、人の頭の中だけに存在し、世界の側には存在しないのではないか。
この記号やカテゴリーの存在を人の頭の中の存在と考える時、色は空となる。色などない。

空即是色、空虚なものは色。世の中を色が支配している。世の中には多くの価値観がある。この価値観というものは、実は空虚そのもの。この空虚そのものが、世界(色)である。
人は、この空虚な世界から色を理解している。色から空虚(世界)が生まれるのだから、同語反復的な構造だと思えばいい。
正義、力、真実、美、そのようなものはプラトンが言うイデアのようなものだ。人は空想できるが、そこに辿り着くことはない。このようなイデアは空。
空とは記号や概念から理解される世界。人として、人間として理解する世界は価値観という偏光グラスを覗いて見た世界だ。この記号や概念の世界は本当には存在しない。
実在するもの、世界の側には空は存在しない。空虚なものは、人の頭の側にある。だからこそ空即是色。

空虚な世界に巣くう人々、空虚の住人は、ネット社会を想像すると理解しやすいかもしれない。リアルでなく空虚であるが、その背景には実在が存在する。それに空虚であっても、この記号を信じて、世界を生きる姿が、人間の姿である。空虚であることを知りつつも、そこに、そこで前進をする。
人の存在の仕方は、この空虚を乗り越えて、空虚を見据えて、その空虚であることを知りながら、空虚の中に意味を見出す。空虚であるから何もしない。これは違うと思う。空虚であることを知りつつも、そこで踏ん張る。これが価値。(これも色ですが、)のような気がする。
人は、色無しに生きることはできないし、色がなければ人間性を保つことすらできない。
仏教では、色や空に意味を見出すことは言っていないと思うが、私はこの色や空虚の中に意味(意味自体が色だが。)を探し、そしてそれが空虚であることを知る。そして新たに色の中に意味を探す。このサイクル自体に意味があると思う。

このようなたわごとも、空虚な話かもしれない。