監視の社会

給食の余りを調理員は食べてだめか。
こんなことが、ニュースになるのかと思う。給食の調理員が余った給食を食べていたので、これを市長が叱責したという内容だ。
余り物は全て捨てろということだが、食べ物である以上、捨てること自体に問題があるのだが、この点についてはなんら観点がない。

市民の目があるから、役得は許されないという判断、調理員が自分が作ったものを毎回食べるのは、それだけ料理がおいしかったかどうか確認することになるのだからむしろ当人分くらいは食べる方が望ましい。自分が食べないものを人に提供するよりも毎回自分が食べている方が美味しいものができるのは当たり前だと思う。わざと余らせる必要は無いが、余りは調理で必然的に生じるのだからこれを、そのまま捨てるよりも調理員が食べることには意義があると思う。
問題は、これが調理員だけの話というよりも、社会全体が他人の目を気にして暮らさざるを得ない。密告社会化しているのではないかと点だ。
教員が夏休みに仕事をしていないという批判も以前に行われたが、あなたは余裕のある教員に子を教えてもらいたいだろうか。それともかつかつの時間でしか授業が用意できない教員とどちらがよいだろうか。
我々は、他人への視線を厳しくするあまり、これが自らに跳ね返ってくることを忘れていないだろうか。過剰なサービスを要求する客ばかり増えている。これがクレーマーでありモンスター何とかと言われる存在になっている。社会の多くが労働者で構成されている以上、他の労働者への要求を高めることは、結局は自分がそのようなサービスの提供を求められるということになる。