透明な言葉

  言葉にする時、伝えたいことをそのままに伝えることができるだろうか。言葉を使って意思を伝えたい。この意思が思いのとおりに言葉になるだろうか。
  思いとは、何だろうか。意思とは何だろうか。言葉にする前に思いが存在し、それが言葉に変換されるのだろうか。それとも、思いなど存在しない。言葉にした時に思いが生じるのだろうか。
  言葉にした時に初めて、思いが生じるなら伝えたいことが伝わらないなどということ自体が起こらない。
  でも、実際には自分が言いたいことが表現できていないという思いを感じることは誰にでもある。
  「あれだよ。あれ。こういう感じなんだ。」あれって何だよ、どういう感じなんだ。と聞き返したいことが時々ある。
  では、思いは言葉に先行して存在することになる。表現化されない思い。このもやもやした感じが思いであるわけだ。このもやもやをもやもやすることなく、完全に表現できる言葉があれば神様が使う言語になるのだろうと思う。

  言葉には色がある。あなたは、自分が思っていることと反対の意味にとられて困ったことはないだろうか。声色、文脈によって言葉は変化する。
「  賢いね。」と言う時、それは褒め言葉だろうか。皮肉だろうか。
  意思をそのままに伝える言葉というものはない。逆説的だが、人は、言葉によっては、完全な意思を伝えることができないからこそ、噓が成立するし、嘘が可能であるからこそ人間関係は成立するのだろう。
  もし、言葉が透明なままに私の意志を伝えてしまうなら噓や謙遜、お世辞は成立しない。