見方 4

 私を私が観察することで、観察している私と観察された私、どちらも私だが、次元が一つ上の私が生まれてしまう。観察された私は、過去の私となってしまう。観察しているのは今であるので、過去の私を思い出しているに過ぎない。どうしても記憶の中の自分、想像上の自分しか見ることができない。自分の目で自分の目を見ることが出来ないのと同じだ。
 私を層の中の泡と考えると、私という人物の社会的位置づけ、精神的な位置づけができるが、これはリアルに出会う出来事ではない。私が持っている世界についての理解でしかないのだろう。
 私を見るには、私が出会う人の反応を見るのが良いのかもしれない。私が出会う人は、私に対して何らかの先入観、構え(固定概念)を持っているだろう。初めて出会う人であっても表情に私に対する意識が見えていることがある。よくよく出会う人物であれば、私に対する構えを十分に読みとくことができれば、それが私なのだろう。
 私に対して、無関心、好意、反感、尊敬、軽蔑、恐れ、信頼、期待いろんなものが交錯している。それらの他人の意識は、私が呼び起こした心象であって、そのすべてに私が責任を負うことはないが、その心象の発生の一因ではある。
 私が、他人に対して持っているこれらの心象も私だろう。
 私が持っている他人への心象は、一つのできごとで簡単に変化してしまう。これまで信頼していた人について、期待を一つ裏切られたと感じれば、怒りに変化する。
怒りがあれば復讐を考えることになる。
 この心象を色であらわすことができれば、刻々と変化する虹のような模様が生まれるのかもしれない。
 
 この心象は、私に対する他人が持つ評価を、私がさらに評価し発生している。とすれば、この心象を観察しても、私自身が行う私に対する評価が得られるだけか。
 これでは、つまるところ、観察している自分と、観察された自分が生まれてしまっている。この方法は一定他人の評価を交えたようだが、やはり私を外から見ることができたわけではない。観察した自分が観察された自分を正しく評価をしているという保証はない。むしろこの評価でさえ、自分の思考の枠である一定の構えを通してみていることは確かだ。
 他人の怒りや、侮蔑の反応を読み間違えることは少ないと思う。ただ、好意や喜びについては読み間違えることもあるだろう。
 観察方法としては、リアルタイムに近い自分の反応をよく見ることができるのは優れているが、これは一つの方法ではあるが私を規定するのには足りない。
 私を、他人との反応だけで説明することに無理があるのかもしれない。