層と泡 3

 私を場所や関係として考えるとどうだろう。
 私が見ている風景は、今は自分の部屋だ。この部屋の風景と音が全て、ドアを一つ開ければ、違う部屋に続いているが、ドアを開ければ、そこが月の上であろうが、水の中であろうがドアを開けない限り、本当にそこに自分の思っている部屋が続いているかは分からない。
 自分が移動すれば、違う風景が見え、確かに認識できる世界がある。高いところから町をみると、たくさんの家が見える。今、たくさんの家を見ているが、その家がどんな家かを見ようとすれば、その家の前まで訪ねて行き、よく見なくてはならない。望遠鏡があれば、それを使ってもいい。ただ、家の中を見たい。その家にどんな人が暮らしているのだろう。その家でどんなことを考えているのだろう。と思えば、突然だがその家の呼び鈴を押してみるしかない。
 こんな、やり方の訪問は実際にはできないが、普段自分がしている訪問は、自分が持つ社会との関係性の中での訪問だ。
 自分が興味を持つ(観光や趣味)、持たざるを得ないこと(仕事、さまざまな義務)へ訪問して行き、そこで世界を確認して、また自分の家、自分の部屋に帰っていく。
 多くの人が、自分の場所を移動しながら、世界を確認しつつ、他人の世界、場所と接触をしている。一般的な意味での世界は、個人的な認識上の世界(自分の場所、円形上の自分の影響力の範囲)が、個人を示す円を互いに重ねあわせ、その集合と考えられるのか。世界は個人を示す泡がいくつもいくつも重ねあって層をなし、層が違っていると、ある個人と個人は出会うこともない。この層は、上下もあれば、左右、前後もある層だ。
 旅行が楽しいのは、いつも自分がいている泡の層から抜け出して、違う泡の層へと突っ込むからかもしれない。今いている層は、男であり、日本人であり、労働者の層だ。この層は、好きに分類できるアイドルおたくの層でもいい。
 自分がいる層をどこにするか。今いる層を捨てて、違う層に突っ込で行くことが、冒険で、冒険からいつも自分が帰る層が決まっていればそこが、私なのかもしれない。この帰る層が、自分の家、部屋かもしれない。
 知的に冒険をしているなら、考えが最終的に帰ってくるところが自分が位置している層なのか。私の層は、何か悲しげな層だ。悲しむことを楽しんでいる層かもしれない。この層は、労働者というような分類ができない。これを名づけてしまうと自分をなんとか主義者とか言わなくてはならなくなってしまう。たぶんこの名づけをしてしまうことが宗教なのだろう。
 一度名づけてしまえば、その層は気持ちがいいものかもしれない。いつも帰る場所が決まっていて、そこに帰れば考えはまとまり、方向性を示すことができる。ただその層から、出て行くことは難しい。何せ、知的に帰ってくるところ決めてしまったものだから、帰ってきたところが正しいのかどうか何て考えようがない。
 
 世界は消えつつある泡のあつまり。また発生しつづける泡のあつまり、この泡の一つ、一つに価値がある。この泡一個の価値は、その泡を覗き込んでみないと、関係を持たないと分からない。実際に今も、自分の層と違うところで泡が消えたり、生まれたりしているはずだが、悲しくもうれしくもない。
 ただ、本当に身近にあった泡がなくなったときに、寂しさを感じるのかしれない。
 こう考えると自分は、泡なのか。どんな風に、この泡は消えていくのだろうか。
 層と泡まで考えたが、これでは私というにはまだ足りない。思考の枠を私とすることがいやで、私を考えたが思考する枠の泡ぐらいにしかなっていない。
 また続きを考えよう。