無色透明なかっこよさ 2

 子が学校の先生の一人をかっこよいというので、写真をみれば、そんなにかっこよくない。キムタクのような男前だと不思議に思わないのだが。その先生をかわいいとさえ言っている。標準的なかわいさはないと思うのだが。
 妻が見る台湾ドラマの俳優も、そんなにかっこよいと思えない。
 反対に、子も妻は、車を見てかっこよさを感じることはないと言っている。ポルシェ、やフェラーリを見ても、言われないと分からないし、それがかっこよいと言われるから、そういうものかと思うそうだ。
 私は、ポルシェやフェラーリの中にかっこよさがあると思っていたのだが、必ずしもそうではないことに気がついた。
 それがかっこよいと言われるから、人がかっこよいと言うから「かっこよい」という現象はよく起きているのだろう。私が乗っている旧型の小型乗用車も、誰もがかっこよいと言ってくれれば、ポルシェに負けずに「かっこよい」と思うようになるのだろう。
 この場合の「かっこよさ」は、そのもの自体よりも人が羨望するものを所有している。まわりの人が欲しがっているから私もほしいという心の仕組みを「かっこよさ」としているのだろう。金銭を多く所有した人を「かっこよく」思うのは、その人自身のかっこよさよりも、その人に付随した羨望を「かっこよい」と表現している。
 かっこよさは、多くのかっこよいものと、かっこ悪いものを経験した後に、その人なりのかっこよさの基準が生まれ、定まっていくのだろうが、このかっこよさの形勢過程では、人がかっこよいと言うからという構造が入り込んでくる。
 かっこよさは、私が思うかっこよさに対し、社会が評価を下し、その評価に対しまた私が、私の考えるかっこよさを提起し、これに社会が評価を下す。
 私が、私なりのかっこよさを提起していれば、私のなりかっこよさが存在すると思うが、私は、かっこよさについて多くの場合に無批判に社会の評価を「かっこよさ」としていると思う。
 また、特にかっこ悪いものについては、鋭利な評価を社会が下し、この評価を私が受け入れることによって、私は、かっこ悪さを理解しているのではないだろうか。わたしなりのかっこ悪さを考えることは少ない。
 では自分のかっこよさの基準というものは、社会的な羨望を通して形成されていることとなる。私が思っているかっこよさとは、単純には私の自分だけの好みと思っていたが、高い濃度で社会的な羨望をかっこよさとしている。
 私なりのかっこよさという基準が本当にあるのだろうかと思えてきた。社会のどのような評価を私が受け入れるかについて、私に選択の自由があるのだろうか。社会の評価に関係ない私の考える「かっこよさ」
 この社会の評価に関係ない「かっこよさ」とまで考えを延長すると、もはや「かっこよさ」は無色透明になってしまうだろう。この時には、かっこよさは言葉の意味を無くしてしまう。
 何をかっこよいと思うかは、個人の勝手であるが、社会の評価から離れたものを対象として選んだ場合、かっこよいは社会的に意味を失い、その人自身においても、いつかはかっこよいの意味が維持できなくなるだろう。
 ただ、社会の評価を無批判に受け入れることも、私を喪失することとなる。
 かっこよさは、個別の対象をその都度に、私がかっこよいと思い、それが社会的に受け入れられるか否かを個人的に検証することによって維持されていく。
 この運動は、どのような言葉についてもあてはまると思う。言葉自体が運動であり、流転のうちに意味がその時々に、個人から社会から付与されていくのだろう。
 私だけのかっこよさも成立しなければ、無色透明なかっこよさというものも成立はしない。