クリシュナムルティ感想6

    クリシュナムルティの教えは、徹底して自分を観察しろ。そして自分で考えろ。というところにあると思う。そのため、楽に、他人に教えを聞いて、何故それが正しいの考えることなく、知っているという人の意見、それを批判なく実行したい、という人には、向いていない。これを信じれば救われるという事は、自分の教えを含めて一切ない。むしろ、そのような教えから眼を覚ますことが、教え、彼が言いたいことだ。
  人は、喜び、優越、偉大さ、そのような幸せという感覚、それに名前をつけて、それを再体験、何度も継続して、それを味わうために、その継続性の確保のために必死に努力をする。色んなことで頭を悩ますのも、この再体験のため、いつでもどこでも優越を感じるために、色んなものを手にいれようとする。又は、手放さないようにする。
  この手に入れる、手放さないことが、恐怖や、怒り、ねたみ、色んな感情を生み出す。元は、幸せだったはずなのに。
  私達は、失敗、劣等感、そういうものへの心理的な恐怖から、努力しているように思うのだが、実は、その努力、これをしたのに、希望のものが入手できない。そういう事態がまた恐怖を生み出す。努力、そのものが、新たに恐怖を生み出している。
  恐怖を失くす努力が、恐怖を起こしている。
  比較、優越、劣等感、再現性、継続性、そういうものに私達は、愛着をもっている。体、心に染み付いていると言えよう。
  これらのことを、ただ比較を止めるだけで、恐怖を止めることができる。比較への愛着、それを止め得たら、真理的な、恐怖と名づけているものの多くは止むだろう。
  それは、明日でなく、今、止めなければならない。それを止めることができるだろうか。努力する。そうすると、それは明日になり、いつか止めることができるようになると思う。その構図は、出来ない。今が明日になることを理解すれば、今でなければ止まないだろう。
  そのことまでは分かる。
  今、止めたと思う。その今は、ある一つの日時を指すのではない。それは毎、次々の瞬間に止めなければならない。
  ただ、私は、ここまで分かっても、次々の瞬間に比較をしている。その思考を愛しているかのように、この思考パターンが定着している。そのことに気がついた時に、また、元に戻っていると思い。本当に、こんなことができるのだろうかと疑いを持つ。
  20年ほど前に、このように思い、あきらめていた。もう一度、頑張って、比較しないことを努力しよう。そうすると、そこには努力、時間、今でなくいつかできるようになろうというパターンがしのび込んで来る。これでは、又、スタートに、循環に戻っているのだ。
  だから、今に、止める。変わるしかないのだが。。。。
  それも、仕方ないことと、諦めを持つ。この諦めは、人は変わらないという諦観だ。
  これが、20年前に、私が考えた、感じたことだろうと思う。
  それを、今、改めて考えている。