クリシュナムルティ感想5

  今日は、元旦だが、昨年から続けているクリシュナムルティについてまとめを書いておこう。内容的には、彼が言っていると勝手に私が思っていること、を書いているので、相違が多く、誤解も多いだろうと思う。
  彼は、人は自由になるべきだと言う。この自由は、他人に配慮なく自分が好きなことをする自由ではない。人を条件付けるものからの自由、そういう自由を持つように言う。
  人は、自由意志で行為をしていると一般に考えられているが、事実はそうでもない。人の行為や、考え、思考を条件付けるのは、伝統、宗教、愛国心、政治的イデオロギー、部族主義、等々。何らかの伝統や主義、信念に従って考えている。
  また、人は、不安におびえ、恐怖を受容して暮らしている。仕事を失う恐怖や、もっと根源的には、自分がなりたいものになれない、ひとかどの人物たりえないことの恐怖、誰かと比較して、自分が劣っている。勝っている。   常に、あるべき偉大な自分と、現実のそうでない自分、金銭的、社会的、精神的に。そういうものと比較をしている自分。ここに自由があるだろうか。
  恐怖や不安、比較、そういうものが人を大きく縛っており、そのもとに思考をしている。今の自分と比較して、明日は自分は暴力的にならないようにしよう。人にやさしくしようとか。今、暴力的な人間が明日非暴力になることはないにも関わらず。
  これらは、現にそこにある恐怖、狂犬が目の前にいるような。そういう事実としての恐怖ではない。恐怖している時は、そこに恐怖と名づける時間はない。恐怖して、それを恐怖と名づけた後に、事実と別に、心理的な恐怖が、事実を対象とした記号、言語化した恐怖が継続する。もう、そういう目に会わない様にしよう。
  この心理的に継続する恐怖は、事実として恐怖ではない。事実としての恐怖、そこに狂犬がいれば、毛が逆立つような感覚を得るだろう。それが恐怖、驚いている瞬間は叫び声はあげても、驚いたというのはその後、それは否定しない。事実としての恐怖には対処がある。
  一方で、心理的な継続した恐怖は、思考が生み出したもの。そこには、比較があるのだろう。あるがままの事実と、こうでありたい、こうであってほしいこと。その差異が恐怖を継続して生み出している。
  事実をあるがままに、見るだけでは、そこに恐怖はない。その事実が、自分の信念や理想と違う時に、恐怖がうまれる。そして、その恐怖から、暴力が生まれる。
  心理的に、恐怖していると自分が考える時、そこに何があるのか、それを見よう。比較している自分は、比較されている自分と同じだ。比較されている自分が卑小であれば、そうであってはならないと思っている自分は、事実、そのまま卑小であること、それが他人ではない自分自身。そういう構造を、そのまま観察しよう。
  事実をそのまま、比較なく見ることができる時、その時に、伝統、宗教、愛国心、信念、恐怖や不安、そういうものから離れることができる。
  そこにあるのが、自由。だと思う。