クリシュナムルティ感想3

    恐怖は、比較から生じる。あるべき姿と実際の姿。恐怖は思考により生じることを知る時、そこにあるのは比較すること、あるべき姿であろうとすること、それが恐怖をもたらしていること、事実、現在に恐怖が存在するのでないこと。事実の中に恐怖があるのでなく、事実とあるべき姿との比較の関係の中に恐怖は生じ、それを恐怖と名付けた時に概念的に、記憶として恐怖が継続することになる。
    人は、私は、比較しないことを学ぶことが出来るだろうか。私が、比較をしている時、優越感、劣等感にある時にその事に、気がつくことが出来るだろうか。私がその様な感情を持つ時、そこには比較がある。優越感を持つ時、快楽がある。この快楽の喪失も、恐怖の原因であると、その時に気づく事が出来るだろうか。
    恐怖なく生きる。そこに比較はない。比較があるところに、貪欲さがあり、なにかに成ろうとする構造がある。何かになることが出来ない恐怖が、努力を生み、そこに葛藤が生じる。私という容れ物に、自我に何かを詰め込もうとする。私とは、これだと言おうとする時に、実際との、あるがままの事実との違いが生じる。
    私とは、何者でもない。そのことに気がつく時、比較から解放されるのだろうと思う。私は、これだと言う時、そう言う私は、別の私、観察者、発言者としての私、私は、無数の面を持つ。その内の一つを発言者が名付けたとしても、それで終わりではない。名付けの構造は延々と続く。それが、恐怖を延長、次々と更新していくのだ。
    私は、無力であり、色々なことに日々、恐怖している存在だ。恐怖した時に、そのことに気が付こう。恐怖をもたらしている物は、私であり、恐怖に名付けを行なった私を。