クリシュナムルティ感想2

    クリシュナムルティの教えをまとめてみようと思う。私が思ったことのまとめなので当人の言っていることとズレがあるとは思う。
     物事を見るときに、人はイメージを通して観ており、物事に名付けをして、そこにイメージをもたらす。イメージをとおさず、名付けをせずに、そのままに観ること、良い、悪いとういう結論をつけずに観る。そこに真実がある。
     言葉は、記憶であり知識である。知識をとおして観るところ、過去の条件付け、日本人、キリスト教
仏教徒無神論者として、何々として物事を観る。そこに真実はない。
    私を観察すると私は、常に何者かになろうとする。今ではない未来には、ひとかどの何者かになろうと努力をする。進化を目指し努力をするが、生きているのは未来でなく今である。未来に何者かになるのでなく、人は今変わらなければならない。私が変わるのは何かになるのでなく、私が今どうあるか。自分を知る。観ることである。そこに努力はない。今そうでない何かになろうとする。それは貪欲であり、そうでない自分との間に分断 、葛藤をもたらす。何かに成ろうとする努力が葛藤をもたらし、そこに恐怖をもたらす。偉大な私、そういうイメージ、それにならなければならないと思うこと、それが思考の罠であり、そこにはまり抜けだせない。
     自由とは、何かに成ろうとする葛藤、イメージから離れること、それは、何か教えを信じて、精神的に暫時的に階層的に成長することではない。自分を観察し、自分が貪欲であり、恐怖に満ち、暴力的で、攻撃的であること、それらを理解することだ。
     私は、世界であり、私は、世界の歴史、条件付け、思想、それらの構成物、結果である。私を観察すると、そこには世界が、世界の条件付けが存在している。世界に見られる暴力や悲惨は、私を観ると、私の中にもそれが存在していることがわかる。
      私は、世界から条件付けられており、私は一定の立場というものを取るとき、その時には一つのイメージの下に、世界を、あなたを観ることになる。このイメージを離れることこそが大切で、真実を知ることになる。
      人は、何かを信ずるのでなく、自分でこれらのことを理解しなければならない。そこには、指導者と弟子のような権威は、存在しない。正しく物事を、イメージの条件付けなく、決まった立場からでなく、観ることを出来るのは自分だけだ。そこに教えがある時には、それが一つのイメージ、条件付けになり真実は見えなくなる。