主語と述語と世界の関係についてのメモ2

  fである何かが存在する。 論理式で書くと、∃xf(x) 
  このfが物事の本質。xは個物である何かを指している。∃は、存在するという意味。
 この∃xf(x)が成立するのは、変項であるxにある特定の値が入った時になる。faが存在するとしよう。aは、特定の値であるので、ある個物を意味するので、例えばaを安倍晋三とする。
 これが成立するのは、fが人間であるとか、総理大臣であるとか、右翼の軍国主義者であるとかになる。仮に左翼の共産主義者では不成立となる。
  faが在る時、fが存在すると言えるのか。faは個物だがfは何らかの性質や事態を現している。aが存在する時にその述語となるf無しに存在することはないだろう。
 安倍晋三の存在は、何らかの背景の下、fの元に見られることになる。それ故に、忖度されることとなる。
 言葉を使う人間は、そこに何らかの性質を様々な面から見て取り、又は自己の判断を含めて投影をする。物事を、物事の存在と同時にそこにfの存在、内在をみる。aなしのfというものは成立しないが、fなしのaも存在しない。安倍晋三は、この名が日本人であることを示している。
  fが無ければ、素粒子の雲のようなものが世界には在るだけに、個物というものも、物の境界というものがなくなってしまうだろう。fなしには、aそのもの、aをbからもa以外のものから切り離して見ることもできないだろう。
  そういう意味で、存在するもの、個物でさえも、人の意識にかかっているものだと思う。世界は、個物からの抽象化、普遍を取り出す作用によって、分類整理されていると考えてよいと思う。
  私が言葉を使う時、物を見る時、何らかの相のもとにある。そこには、何かのバイアスがあるだろう。世界の側にfaがあると私が思う時に、私はaでなくfを見て取る。fを具体化、具現化したfa、aよりもfを見るのだと思う。
  人と人が話しをする時に、互いにaよりも、fを見て、fを話題に話しをするのだが、その二人の間に共通するfとは、共通するようで実は、違う物である。fに公共性はあるのだが、それぞれのみるfは、その人限りのf、faという個物に受肉した途端に、それぞれが見るaは一つ、でもfaは何通りにもなる。
  存在することと、そこに何らかの性質を見ることは、同時的に起こる。そして、何かを伝えるには、このfaを何らかの意味で伝えることなのだが、一つのaを見てもfaは何通りにもなる上、言葉の上では同じfと言っても、fの意味が人それぞれに違っている。そこに、コミュニケーションの難しさがあるのだろう。