われおもう、われはあるか。。。。。

  「我思う」と言う時、それを言う私には、言葉が必要だ。「我」、「思う」という概念、この概念は、私の第1言語(日本語)の習得によって初めて言える言葉だ。
  そうすると、「我思う」という発言の前に、日本語の存在が前提されている。我思う以前に日本語が成立し、その前提として日本という社会の存在が前提されている。これは、他言語でも同じ。
  「我思う故に我あり」よりも前に我思うには、「初めに言葉ありき」となる。「我思う故に我あり」は、我以外の存在を懐疑的に見ていたはずなのだが、その前提の言葉の存在については懐疑することができない。そもそも、懐疑するには言葉がなければ、懐疑さえできない。
  「我」や「思う」は、総じて言葉の意味は、社会的因果関係(社会のネットワークの中で言葉の意味が定まると)の中にある。対して完結した自己の世界の内(自分の思考の内だけの世界の中)では、社会的因果関係を前提としない言葉はないし、その世界においても意味を定め得ない。
  「我」は、第2人称、第3人称との関係性において初めて生じるものであるし、「思う」も「O・MO・U」という音声を発話しそれがどういうことを意味するか、学習の内に、親に教えてもらって初めて、「思う」ということがどういう活動を指すのか、社会的に意味を持つのかを知ることになる。
  語の意味が、社会的因果関係において定められるのであれば、「我思う」という発言の意味は、社会的因果関係において定められることになる。私の独我論的世界内(世界は私の感覚や思考の内にあるというような考え)で定めることができる内容ではない。もし、独我論的世界内で定めることができるのであれば、「我思う」の代わりに「おれわもう」という発話が、おれわもう(我思う)を意味すると定めることもできるのだが、それを社会的に通用する「我思う」の意味と同じと定めるには、基準となる社会的な言葉が必要になるのだが、独我論的世界においては、その基準が自分の言葉になる。そうすると「おれわもう」がどういうことを意味するのか。独我論的世界において「おれはもう」がどのような使われ方をしようと既にたがが外れてしまっている。そういう意味で、語の意味は社会的因果関係の中にあるのだろうと思う。
  ここで疑問なのだが、社会的に定められた言葉の意味によって、「我思う」時、私は本当に思っているのだろうか。
  社会的に通用する意味での「思い」(言葉)が存在することは確かなのだが、そこに「我」の「思う」というものはあるのだろうか。
  外見的には完全な私のコピーであるロボットがあるとしよう。それは、ものを思考することはできるのだが、そのロボットの思考内容には意味はない。このロボットは、論理的な推論や発話はできるのだが、例えば、「この花は美しい」という発話を各シチュエーションで正しく使うことができるのだが、ロボットはこの花を「美しい」と感じることはない。
  このロボットが、「我思う」と発話した時、「我」は本当に「思っている」のだろうか。正しく発話することはできているのだが、思うの意味内容に意味を与えていることができるのだろうか。「O・MO・U」という音声が流れるもしくは記述されるだけで、そこに「思い」はあるのだろうか。
  ややこしいことに、このロボットは私の完全なコピーなので感情豊かな表情も表現してしまう。
  ここでロボットの発話に、「われおもう、ゆえにわれあり」と音声が流れた時、ロボットに思いは、あるのだろうか。
  言葉の存在と、そこに思いがあるのかどうかということは、一方では別のことではないかと思う。社会的因果関係において言葉の意味が定まるのであれば、私が創造するロボットは正しく社会的因果関係において発話を行う。完全な表情をするロボットを見ると、ロボットにも思いがあることを吐露したと考えてしまうだろう。 ロボットが自らの権利を主張し始める映画(マトリックスのような世界)があるが、この時ロボットの「思い」は否定できるだろうか。
  ひとつには、「思い」は音声や文字の存在だけでなく、そこに独我論的世界を持つ「我」が生じて初めて「思い」になるように思う。その次に考えを進めると、私という存在は社会的因果関係の基盤(日本語というネットワーク)の上に立つ独我論的世界の「我」である。
  一方で、単に社会的関係性の中で、それぞれが第1人称を使用する個体があれば「我」になるわけでもない。
この独我論的世界の「我」が何であるのかは、我の意味内容が社会的因果関係の基盤(日本語というネットワーク上)に成立しているのであれば、「我」は完全には独我論的に、自分の存在だけで「我」という言葉に意味を与えることができる存在ではない。
  「我」に意味を与えるには、日本語に従って有効な意味を持つ実践、認識がないと「我」に意味を与えることはできない。
  そうすると、こう考えている私、「我」はロボットとどう違うのだろうか。
  私が、「我思う」と言う時、私はそこに意味を見ているのだが、実は「われおもう」と発音しているだけで、意味自体は社会が決定し、それを意味として私が見ている。私が見ているように、ロボットも「われおもう」を見ることができるのではないか、見るということにどんな違いがあるのだろうか。ロボットは、社会的環境にあわせて、状況に応じた発言を完全に行うようにプログラムされているし、それを実践もする。(完全なプログラムでなくても、時々とんちんかんな発言をする人間との違いは見当たらない。)
  ここまで来て、「我」とロボットの違いはどこにあるのか。初めから、漠然と感じていたことなのだが、言葉の意味が社会的因果関係において定められるのであれば、それを正しく状況に応じて使用できる者は、意味を知ったり、感じたりすることがなくとも、「我」になるのでないかと思う。意味を知るということが、正しく状況に応じて使うこと以上に意味があるのだろうか。
  そこでまた元に戻るのだが、「我思う故に我あり」という時、そこに発話があることは否定しないのだが、完全な実践を行うロボットに「我」の存在を認めない時、私にも「我」は存在しないのではないかと思う。
  私自身がロボットのように社会的な因果関係、大きな言葉のネットワークの中で、一定の語彙を集める小さな下位カテゴリーのネットワーク、この小さなネットワークを構成し、それを発話する装置のようなものだと思っている。 
  そこに「我」があるとき、ロボットとどう違うのだろうか。ネットワークに我を見る時、我はスポットライトのように真ん中は明るいが周辺は暗くなりそして解消していくようなものではないだろうか。行き着けばそこに、我と言えるものが残るのだろうか。砂山の砂をひとつずつ取り除いた時、いつかは砂山はなくなるのではないだろうか。と思う。