私達が知ることができるのは、私達は何も知らないということだけだ。

  最近読んだ本(言語哲学入門から中級まで・ライガン)に、自分が言ったことは含めないということが書かれていたのだが、その中に「私達が知ることができるのは、私達は何も知らないということだけだ。」という一節があった。考えてみて少し面白かったので、ここにメモしよう。
  
  「私達は何も知らないということ」を知っている。
  「「私達は何も知らないということ」を知っている。」ということも私は知っている。私は、この時点で二つのことを知っているわけだ。
    この時以後、私は二つのことを知っているということも知っているので、私は三つのことを知っている。
  「三つのことを知っているということも知っているので、以下、延々と知っていることが4つ、5つに増えていく。」ということも知っている。
  「私達は何も知らないということ」を知るだけで、その知識は1が2に、3にとなる。
  何が言いたいかというと、知識が一つあれば、その知識を元に知識は無限増殖していくということ。

  この文には、突っ込みどころが他にもあるのだが、知っているということはどうして知っていると言えるのか、については知らないとしか言えないところ、このためこの文の成否、真偽は検証できない。
  また、「私達」、「知る」という概念や言葉は知っているのではないか。また、文法的に正しく発言しているのは文法を正しく知っているのではないか。
  この言葉は、多くの前提、知識が成立して初めて言える。また理解できる言葉でしかない。その前提条件は知っているのではないか。
  私達の知識というのは、言葉の基礎、ネットワークがあって初めて成立している。そのことには、この言葉は気がついていないというか、知っていての言であれば確信的に「何も知らないということ」意外も知っているじゃないかと言いたい。ソクラテスはどこまで本気で言っていたのだろうかと思う。
  高校の倫理の時間では、こんな話はせず、「無知の知」とか言ってさらっと流してしまうのだが、今から思うとけっこう突っ込みどころが満載で、好きな人には面白い話になっただろうと思うが理屈っぽい人以外はこういう話は興味がないのだろうと思う。そういう意味では、さらっと流した高校の時の先生は正解なのか。