教える人の権威

  川べりを自転車で走っていると、堤防敷きで野球、サッカー、ラグビーを少年達がやっている。時々、気になるのだが、野球を教える人のガラが悪い。子供に何を教えているのだろうと思う時がある。
  教えること自体に夢中になって、教える内容よりも教える構図、大人と子供、指導者と言う事をきく人、この構図が大好きになってしまっているのだろうと思う。自己充足感というのだろうか。偉い気持ちを自然と味わうことができるから、その上、子供や保護者から感謝されるのであれば天狗になるのも当然と言えば、当然。
  私が、ここで嫌な気持ちになるのは、権力性、公然とした権力というもの、子供に何かを教えることは権力の構図ではないと思う。良い先生と思える人ほど、権力性から離れている。嫌いな先生という人ほど、権力性の匂いがした。実力がないからこそ、先生という肩書き権力というものに依存する。 
  何かを人に教えることは、権力とは異なる。学問は、学生であれ、先生であれ、何らかの問題の解釈の地平に立てば、おなじ地平面に立っている。これはスポーツを教えるにしてもそうだと思う。先生の方が、経験的に正解を答えることが多い、だからと言って新解釈がないわけでもない。
  このことを真面目に考える人は、子供の意見であっても真剣に聴き、これを検討するだろう。