可能世界

  4月になって、給料が下がった。年々、人が減っているのだが、給料も減っている。気も滅入る。
    
  下の子が来年は大学受験なのだが、公立大学に入ることを希望している。私学の学費を払いきると、私の定年後の蓄えがおよそなくなりそうな状況だ。
  大学に入ることが人生の全てではないが、選択可能な世界の範囲がこの時点で大きく変化、または決定されるのは確かだ。彼のためにも、私のためにも上手く行けばよいのだが。

  私達、そのうちの私が生きている世界というのは、常に可能性の中から一つを実現する、した世界である。
  多くの可能な世界の中から、私が選んだ世界が現にある世界だ。多くの違う可能性は、今が存在する上で消滅しているのだ。
  多くの泡沫があるのだが、その中のひとつだけが残ったようなイメージだろうか。泡沫の一つ一つが可能世界とでも考える。そう考えると、一つの選択の度に、無数の世界が生じ、そして消えていく。
  結局は、今有る世界を受容し、その世界の中で、これからの世界、可能性としての世界の中から、自己が世界を切り出していかざるを得ない。切り出すというよりも、到来する世界だろうか。到来しつつ、その方向性を自己で変化を与えることが可能な世界だ。
  私は、今有る世界を受容し、ここを足がかりにして、基底として世界を切り出し、受け入れていかなければならない。
  この切り出しの可能性、選択の範囲というものが、私のような歳になると開かれているようで、一方でかなり閉じたものだ。この後に、何が待ち受けているかは確かに分からない。
  大学の選択に比べると相当に自由度が低い。様々な制約を受け入れその中で、切り出していかなければならないのだから。
  この制約が世の中のしがらみというものだが、有る程度生きているとどうしても因果や義務というものが生まれてしまう。この因果やしがらみをできるだけ減らそうというのが私の姿勢ではあるのだが。
  これから、何が可能であるのかは、子にも、私も分からない。だが、その当座の可能性だけは分かる。そういう意味では、何が可能か分からない不安をかかえながら、皆、当座の可能性に賭けると言うほかないのだろう。