花見

  川べりの桜を見に自転車で出かけた。コンビニでお弁当とお茶を買った。合わせても500円ちょっと。ビールにしようかとも思ったが、1人で外で飲むビールはそんなに美味しくないので、お茶にした。
  何故か、何度か試したのだが外で缶ビールを1人で飲んでも美味しくないのだ。家でなら1人でも美味しいのだが、外で1人でビールを飲むと疎外感みたいな、ひとりぽっち感がして美味しいと思えない。
  桜を、花見をする人を見ながらお弁当を食べた。毎年、桜を見るが、本当に花見をしたのは初めてのような気がする。人の喧騒がいやなので、混むと分かっているところが嫌なので、弁当を持って花見ということはしたことがなかった。子供の頃にしているのかも知れないが、記憶にはない。
  桜を見るたびに何度目の桜だろうと思う。あと何回見ることができるのか。花が咲き、散る。どうもストーリー的なものを感じてしまう。
  今読んでいるマッキンタイアの「美徳なき時代」に書かれていたのだが、人は自分の人生を物語的に解してしか、人生の意味を考えることができない。花が咲き、花が散る。さくらの場合は、種子がほとんどできないが、花の美しさによって、人間の手を借りて繁殖することに成功しているのだから、戦略的に成功している。
  自分の人生を物語り的に語ることができる人は幸せなのだろうと思う。自分がいつどこで生まれて、何をしてきたか、何を目的に、これが語れるということは生きる意味を語ることができるということだ。
  目的論というのだが、何かが何かのために存在している。人間は神の栄光を証するために存在しているとか、神の計画のために存在しているとか、こういう理解は宗教的な目的論だが、人生を目的論で見ると理解がしやすい。何かこれのために存在している。そういうよすがが必要なのかと思う。
  目的論が誤っていることは、存在が目的に依存していることになるのだから、当然に帰結することだと思うのだが、どこかで人は目的論、何かの物語にすがりたくなる。そういう存在なのだろうと思う。