このもの性

  「このもの性」、このものは一つしかない。当たり前のことだが、どのようなものもそれ一つ、これ一つしか存在しない。大量生産品であろうと今、手にしているものは一つしかない。
  物は一つしか存在しない。これはどのような物にしてもだ。一つとして同じものは存在しない。どれほど共通の規格で生産しようが、自分が手にしたものはそれ一つ。その物が壊れた時に、それは一つしかないことがよく分かる。
  一方、どんなものも、名づけ、固有名でなくても、一般名を持つ。この名を持つことにより、その物は、周辺から区別され、一つの物として認識される。例えば、マグカップがあるとしよう。マグカップがマグカップとして認識されるのは、その概念を知るからこそ、マグカップと読んでいる。これを知らない人はカップと言うだろう。
  私は、マグカップがあると思っているのだが、目の前にあるマグカップは、このもの性を持つ。ただ一つの物だ。
  マグカップというもの、一般名が指すものの具体例が存在している。現実に存在するものは目の前の物、そのものが存在するのである。マグカップというのは、その物を指す名でしかない。マグカップという名があるのだが、存在しているのは名でなく、物だ。
  世の中の多くの存在している物と考えているものは、一般名に過ぎない。固有名であっても同じことだが、名であり名が存在しているのではない。私は○○大学を卒業して、××会社の△△部長です。と言った場合、物であるもの、物は存在しない。これらは、存在していると考えて、信じているが故に存在していると考えているが、社会的な空想、ある意味、仮構の存在である。これは社会システムに限った話でなく、言語化された、言語で認識された物について言えば、その名が存在しているのではないことは同じ。名の対象が存在するというのは、何かが存在しているのであろうが、名が示す物というのは、言語で物を区切った、物の役割から見た呼称でしかない。マグカップが存在していると思うのだが、たまたまマグカップと私は呼んでいるが、違う人はコップというかもしれない。そこにあるのはただ物だろう。
  本当に、存在するものは何であろうかと考える時、その時にあるのは、このもの性を持った物、そこにはこの物性はあるが、普遍性、一般名というものは存在しない、ただの物があるのだろう。