意味と目的

  今日、電車でハンナ・アーレントを読んでいたのだが、彼女の指摘に意味と目的の同一視ということがあった。
  意味は、行為の意味であり、意味は行為の後に生じる。そのことは、目的と同じではない。何らかの目的のために行為をしているという理解は、あらゆる行為は意味を持つのだが、その意味がとたんに目的、最終の目的にすりかえられる。塗り替えられると言ってもいいだろう。行為は、人が後から見て、何か意味を考えるのだが、それが未来へと眼を向けたとたんに、意味は目的に転化する。目的は、成就すれば、新しい目的へと向かう。成就した目的は手段へと格下げがなされ、より上位の目的の手段になる。
  意味は、同様に目的と化した時にその意味を失う。私の人生の意味を考えるのは、私が死んだ後、私以外の人が考えてくれるかもしれないし、自分が死ぬ間際に回想するのかもしれない。私の人生の行為は何らかの意味を付与されるのだ。しかし、私の人生の目的を考える時、私の人生の行為の一つ一つの意味は失われ、何らかの目的への手段であったと、より高次の目的が私の人生の意味、それは目的への手段に過ぎなくなる。
  私が、現在や過去のまなざしを持つ時、私の人生の意味を考える、付与することができるだろう。私が、未来へのまなざし、未来に何らかの目的があるとした時に、私の人生はこの目的の手段へと化す。
  私の人生は、何かの手段であるとは思わない。私の生そのものが目的であり、意味である。これよりも、高次の目的や意味を考える時、私の人生の意味は失われるであろう。
  私の人生の意味が何であるかは、私の行為によって後に評価されるのだろう。その前方に何か目的があるというのは、イカロスの望みのようなものかもしれない。