普遍論争

  普遍が存在するか、しないか。以前にも書いたのだが、今日は違った視点で考えてみようと思う。
  私が、普段、使ている言葉は存在するだろうか。言葉が存在しなければ、話すことも書くこともできない。ただ、言葉は実在であるかといえば、そうではない。言葉を食べることができないように物理的存在ではない。これは当たり前のことだが、普遍と言う「言葉」が存在するのは、この言葉の上でしかない。というのが唯名論だとすると、
言葉こそが、実在でありリアルだと言う立場が、実在論
  ある意味、言葉こそが実在であるというのは、切迫した人間関係の中に生きていれば、しがらみや、義理の中に生きている人は、言葉こそが実在であると肌身に感じて生きていることだろう。会社での出世や、世間体、そんなものは存在しないと感覚的に感じている人がどれだけいることか。これらは、言葉にすぎず、存在ではないと。世間体や、名誉、誇り、愛国心や、何でもいいのだがこのようなものが存在すると考えるのは、実在論者の立場に近い。
  実在論者も、薔薇のイデアがあってそんなものが実在するなんて思っている人は、ごく少数だろう。ただ、この言葉が愛国主義や、日本という言葉に置き換わると、何らかの存在を認める人が増えてくる。私にとっては、そんなものこそ、唯名論、単語に過ぎんと思うのだが。
  私達が、何が存在するかを考える時、その中には政治性や嗜好性、そのようなものが入ってくるのではないかと思う。純粋に唯名論的立場から、国や天国は存在しないという時、この言葉は、あるメッセージを持つ。そして、このメッセージに反発する人は、これらの実在を大きな声で主張する。そこに「脅威」がある。現実の脅威にどう対処すれば良いか。
  この時、現実の「脅威」といわれるものは、物理的存在であるのか。どういう意味で存在しているのか。その存在を認める政治性と嗜好性、これらを見ないと、現実に存在すると、どういうレベルの現実と言えるのか評価できないだろうと思う。その論者の立場により、存在の意味は変わってしまう。